四幕 なに怪うたい踊りたもれ 7

 額に硬くて冷たいものが当たった。顔を跳ね返され、シートの背もたれに背中を戻された拍子に、護は目を覚ます。額向く少し先に、窓ガラスがある。覚醒しかけの、ぼやけた視界に入ってくる窓の景色は、バスが停車していると伺わせ、薄暗い中で樹々が広がっているものであった。

 横から女の子の含み笑いが聞こえた。護は額を手で摩りながら、隣を見る。紫雨は護に背中を向け、通路を挟んで向かいの列の、紫雨の隣に位置する席に腰を下ろす女と話している。

 護は、一瞬、紫雨と話している女が、誰なのかが分からなかった。

 まず、女のヘアスタイルによって。このバスには、その女のような髪を後頭部でひとつのお団子状にまとめ、そのお団子を囲むように三つ編みの編み込みをいれている者なんかいなかったから。また、遠くから顔だけしか見えていなかったもので、彼女の着る花柄の半袖ワンピースも今初めて見た。彼女の栗色の髪によって、後部座席にいた女だと判断できた。

 護は左太ももの上に置かれる、紫雨の手を眺める。「今、自分はどこにいるのか」と、護は紫雨に訊きたくなったが、喉の渇きを感じた。足元に置かれてあるペットボトルの水を手に取り、飲む。ペットボトルから口を離せば、飲み口にピンク色の汚れがつく。

 この汚れは口紅だと、護は察する。右手の甲で口を拭い、親指でペットボトルの飲み口の汚れを取り除く。汚れた手を右太もも側のズボンに擦り拭った。そして、忽ちに気怠くなった。

 護は時刻が気になり、腕時計を見れば、22:21と知れる。それからで、紫雨に声を掛け、今いる場所を尋ねた。彼女から素早く振り向かれ、微笑まれた。

「あ。護さん、まだ寝ていなくていいのですか? 今、八定山の中にいます。もうちょっとしたら八定ショッピングモールだそうですけど、まだ到着ではないですから、寝れますよ」

 護は、眠気がまだ残っている。寝ようと思えば、また眠れるだろう。「どうしようか」と、ぼやく。

「あの。すみません」

 後部座席にいた女が、ちょっとおかしなイントネーションで声をあげた。護は彼女を見れば、彼女は席から立ち上がり、護のほうを覗きこんでいた。彼女から白い歯を見せられ、笑まれた。

「はじめまして。わたしの名前は、アルマ、ツカといいます」後部座席にいた女はそういって、左手を護へ差し出してきた。ワンピースのV字に大きく開いた背中が、護の目に入ってくる。

 彼女の述べた名前に、護は違和感しかない。二つの姓を教えられた感じだ。差し出された手を見つめ、「この手は握手を求めているのか?」と戸惑い思いながら、席から腰を少しあげ、自分の名前を教え、握手をする。

「よろしくお願いします」アルマは握手をしたままいって、護の頬に、右、左、右と合計して三回キスを寄越してきた。

 即座に、護は顰める。「名乗りといい、なんともふざけた女だ」と、考えつく。後部座席でケントと仲良さそうに一緒にいたことを思い出し、苛立たせる。アルマから手を払いのけ、身を引かせた。アルマから瞬かれてから、肩を縮こまらせて「癖で、ごめんなさい」と謝られた。

「護さん。わたしもアルマさんから自己紹介の一環として、ほっぺたに三回キスを貰いました」と、紫雨がぎこちない笑みして教えてきた。「アルマさんはスイス生まれで、スイス育ちの日系人なのだそうです。アルマさんが育った土地では自己紹介の時に、相手に友好のしるしとして三回キスをするのが風習なのだとか。だから、そんな驚いちゃ駄目ですよ」

 アルマは無表情で紫雨のほうを暫し見つめてから、笑顔になって頷く。

 護はアルマを眺める。ぱっと見た感じでは、彼女からは日系人だとか、異なる国で育った感じはない、平均体形な日本女性。よくよく見れば、顔の造形の掘りがやや深く、茶色い瞳に黄緑が僅かに差していた。

(なるほど。異なる風習でしてきたわけか……)

 護は納得させられ、不快パラメーターが下がる。腕を組み、シートに座り直す。前後を見て、高佐とケントがいないのに気がつく。

「君さ」と、護は紫雨を呼んだ。紫雨から笑まれ、太ももの上に手を置き戻される。

「何で、今バスは停車しているの?」

「八定ショッピングモールへ行く道が通行止めにされているのです。高佐さん……」いって、紫雨はどもる。「と、弓中さんが、その通行止めを開けようとしている最中です」

「通行止めを開ける?」

 護は窓から外を伺う。バスのヘッドライトで照らされる先に、高佐とケントの佇む後ろ姿がある。彼らの向く、さらに先には二又に別れた車道があり、その左の道には、高さある、両開き型の鉄柵門により通行止めがされる。二人は鉄柵門のほうを眺めている様子。暫し彼らの様子を伺うも、彼らが鉄柵門へと動く様子なく、不思議に思う。

「バスはいつ停まった? ついさっき?」

「いいえ」と、紫雨は答え、携帯電話の画面を見る。「十分くらい前です」

(あの二人は何をしているのだ)

 護はリュックサックを背負う。高佐たちのもとへ行くために、席から離れると、紫雨から呼びとめられ、後ろ手を掴まれ引かれた。「どこへ行くのか」と訊かれて、答えてやった。

「何で高佐さんたちのもとへ行くのですか?」と、紫雨。

「何をしているのかが、気になる」

「ここでわたしと一緒にいてほしいです。護さんと一緒にいたい」

「俺と一緒にいたいなら、ついてくればいいじゃないか」

 紫雨はやや俯き、拳を胸の中央に当てて唸る。彼女の後ろから、アルマが声をあげた。

「ねぇ。紫雨ちゃん。わたしは紫雨ちゃんとお話しがしたいわ」

 紫雨はアルマのほうへ顔をやり、頷く。護を見直し、護の手を掴む手の親指を、未練があるとでも訴えるように、護の手のひらに擦りつけてから手放した。

 護は紫雨に対して特に思うことなく、バスから下車をする。下車してから、何となく紫雨のことが気になり、バスのほうへ振り返る。アルマが座っていた席の隣、窓際の席から、紫雨が窓ガラスに両手をつけてこちらのほうを見ていた。紫雨と目があった感じがしたら、紫雨から笑顔で手を振られた。

 笑顔で手を振り返すような、恥ずかしい振る舞いを絶対にしたくないとは、護は分かる。無視するのは可哀そうだとは思え、頭をちょっとだけ下げた。


 続

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