四幕 なに怪うたい踊りたもれ 3

 ラベルに書かれる説明では、どこへ塗っては駄目だとの禁止事項がなかった。

 敏感肌にも優しいとの説明にも、安心させられて、護は小瓶から指でたっぷり軟膏を掬いあげ、鼻の下に塗った。鼻の下がすーすーとし、メントールの良い香りがし、車内に充満するラベンダーの不快な香りを撃退だ。

 それからシートの背もたれを、限界に倒れるまで後ろへ倒す。後ろにひとが座っていないことで、背もたれに気を遣う必要ないとは、なんともいい気分。メントールの香りと共に、これで気持ちのいい仮眠に入れると、護が目を閉じ、背もたれに寄りかかった。

 真っ暗な視界の中で、遠い後ろから男女の楽しそうな笑い声が聞こえてきて、思わず眉間が狭まる。舌が音を鳴らしたくて、うずうずしだす。

「――いいかい。無茶は駄目だからね?」

 前から高佐の声が聞こえ、護は目を開けた。高佐が後ろに雨戸純の妹を後ろに従えて、乗車してきた。純の妹は、先ほどとは違って、白いブラウスではなく、黒いTシャツを着ている。

「さてさて」と、高佐が運転席の横で立ち、こちらへ向かって大きな声をあげた。「あと、十五分後に出発します。出発する前にお手洗いへ行きたいひとは行っておくように。以上です」

 ――こいつ。高佐は、何をいっているのだ。

 と、護は耳を疑う。周囲を見る。自分に、自分がここに来る前からいる男女、そして今来た高佐と純の妹と数えていき、合計して五人。高佐のいっていた予定の十人の半分だ。

「わたし、もう一度おトイレに行ってきます」と、純の妹は高佐を見あげていった。

 高佐は彼女へ頷く。

「そっか。俺がついていく必要はあるかな?」

「ひとりで大丈夫です。ご親切にありがとうございます」純の妹は高佐に深々と頭を下げて、バスから出て行った。それを見届けてから、護は高佐へ歩み寄り、声を掛けた。

「あの。十人で調査する予定ではないのですか?」

 護がそう質問すると、高佐から長い息を吐かれた。高佐は黒目を護のほうから、運転席のほうへやる。

「予定なんてね、いつだって不透明。護君、これを覚えておいたほうがいいよ。社会人になった時に、嫌ってほど分かる」

「はぁ?」

 護は意味が分からずに返す。

「愚痴ちゃったね。ごめんね」いって、高佐は護に笑む。「うん。十人じゃなくて、五人で調査することになった。元々は、俺、ひとりで調査する予定であったんだ。十人が五人になったくらい、どうってことない。来る予定であった五人は、キャンセルになった」

 ならば、記者は高佐と、あの二名だけか、と、護はその二名がいる最後尾座席のほうを見る。そこでは、茶色い女は窓のほうへ身体の正面を向け、その後ろから茶色い男が彼女の長い髪のひと束を手に取り、三つ編みしている。どちらも朗らかな笑顔だ。こちらのことを、全く気にも留めていない様子。

「あのふたりは、高佐さんの仕事の後輩たちですか?」護は声を潜ませて、尋ねた。

 高佐はちょっと唸ってから、護の腕を掴み引いて、一緒にバスを降ろさせた。搭乗口の近くで立ち止まり、口を開いた。

「いいや。どちらも仕事仲間でないね。女性のほうは、俺に八定ショッピングモールに関する情報を提供してきてくれたひとだ」

「情報提供?」

「うん。菊野財閥から、八定ショッピングモールに最新型自動扉を設置の依頼があったとの情報提供だ」

 護は驚かされる。

「あの女性が、あの最新型自動扉設置の情報を提供してくれたのですか。彼女は何者なのですか?」

「彼女のおじいさんは、設計士でね。主に、お金持ちから家の設計を受けて仕事をしている。世間では有名な設計士ではないけど、著名人たちの間では有名な、プライベートで仕事を引き受けてくれる、一流の腕がある設計士だ。そんな彼女のおじいさんが、菊野財閥から最新型自動扉設置の設計依頼を受けた、と彼女は教えてきてくれた」

「へぇ。なんで、そんな彼女は調査に参加を?」

 高佐は表情に影をさした。

「彼女のおじいさんは失踪したのだよ。彼女の話では、その設計の仕事を終えてから姿を消した。彼女はね、その彼女のおじいさんは八定ショッピングモールに関わったから失踪したのだ、と考えている。だから、その八定ショッピングモールについて、調べたくてたまらないそうだ」

 失踪という言葉に、護は息をのんだ。しかもその後に出てきた、「関わったから」とのフレーズによっても、もう一度息をのませられた。

 ――失踪という、不幸が訪れた。これは、八定モールに関わることで招かれた『呪い』によるものか?

 頭のどこかから問いかけが生じてきて、護は「違う」と首を振るってやる。

「それで、男のほうは」いって、高佐は黒目を上へ泳がせた。「あの、弓中ケント君だね」

 すぐさま、護はバスの最後尾座席のほうを見あげた。明かり漏れる窓から、男の後頭部が見える。

(あいつが弓中ケント……前科者……警備員であったという)

 怒りが腹の底から湧きあがってきて、身体を震わせてくる。護は下げる右手を握り、痛いくらいに力を込めて握る。高佐から肩を掴まれ、高佐を見直す。高佐の顔が青くなっていた。

「護君。ケント君と揉めるなら、参加を許せないよ。揉めないと約束してほしい」

 護はその頼みに舌打ちで返して、掴んでくる手を引き離させた。

「この調査ができるためにひと役買ってくれたのは、ケント君なのだよ。もしもケント君の協力がなかったら、今日の調査をすることができなかった」

「ひと役?」

「今日八定ショッピングモールする警備員に、調査させてもらうことを頼んでくれた。その警備員と友達だからということで。――ケント君も、護君と同じで、事件を解明させたくて、調査に参加を願ってきた」

 自分と同じの部分は、護には聞き心地の悪いものであった。胃の辺りが気持ち悪くなる。

「全く、予定とは不透明だ」と、高佐が明るい声でいった。「せっかくこんなバスを借りたのに、五人しか乗らないなんてね」

 高佐はバスのほうを見て、腰に両手を当てる。話題を逸らしたいのか、と護は考える。その考えは、当たりって感じであった。

「今日はね、俺の同僚の記者二名と、千理桃太君のご両親、それから解散した涙腺黒バットのメンバーのひとりも来る予定であったんだ」

 ケントについて触れることなく、高佐はそう教えてきた。護は高佐に手中に嵌ってしまったような気がしたが、ケントに苛立つのをやめ、教えられた参加予定だった者たちに興味を引かせられた。

「いやはや、実に都合とは不透明。俺の同僚には、悪いことをさせちゃったよ。二人は調査することにはりきっていたんだ。――でかいネタを掴み、一面に飾ってみせるってね。――なのに先週から、急に仕事がたくさんに入ってきてしまってね。もう、一秒一秒が不透明。俺は一昨日から、仕事にもみくちゃで家に帰れてない。本当ならね、今日も俺はあいつらと一緒に会社に泊まって、仕事をしなくちゃいけなかった。だけど、あいつらは俺の仕事を引き受けてくれ、『俺らの分まで調査してこい』と背中を押してくれた」

 と、高佐は語り教えてきた。「都合とは不透明」と、大事なことのように付け加えた。

「てっきり、俺以外の参加者はみんな高佐さんの同僚と考えていました」

「え。そうだったの?」高佐はきょとんとした顔を護へやる。

「はい」

「ひとりの学生と、九人の記者で調査か」いって、高佐は笑いを堪える。「なんだかすごい組み合わせ」

 そういわれてみれば、すごい組み合わせだ、と護も思える。想像してみれば、九人の記者の中に学生である自分がいるのは、おかしな光景。おかしくて、口が笑む。「あ。今笑ったね」と、高佐から嬉しそうに指摘され、口が曲げさせられた。

「それで、千理桃太さんのお父さんとお母さんも来る予定だったのですか?」

 訊いて、護は今から四年より少し短い前まで、顔なじみであった、初老の夫婦を思い浮かぶ。小学生頃には、父がいないことを不憫に思う彼らに誘われ、彼らの家族旅行に同行させてもらったりした。彼らの息子である桃太も失踪した事件が起こった当初は、「互いに励まし合おう」と護に友好的に語りかけてきたが、護の母が奈々を肝試しに誘った桃太について責めだしたことから、今まで築きあげてきた関係に亀裂が入り、あっという間に壊れた。壊れてからは、彼らは護を見向きもしなくなった。

「うん。二人も一緒に調査がしたいって」

「それは高佐さんが、俺に教えたように、八定ショッピングモールで事件が起こった可能性があると教えたからですか?」

 高佐は悩むように唸ってから、頷いた。

「桃太君が着ぐるみみたいな服を隠れて着ていたとの話を、覚えているかな? そのことについて桃太君の両親に訊いた後から、二人は俺の調査を気にしだしてね――『わたしたちの息子が失踪事件において、良からぬことをしでかしたのではないか』ってね。それで俺に連絡をよく寄越してくるようになった。俺がケント君から八定ショッピングモールについて教わってから間もなくかな、ふたりから調査について伺う連絡がきて、自然と教えることになった」

 護は胸にひっかかる。嫌な胸の心地がした。

「二人に、俺が八定ショッピングモールについて知っていることを、教えましたか?」

 いいえ、と高佐が否定した。安心した。と、なりたいのだけど、疑心暗鬼のやつのせいで、護は不安になる。彼らがくれた優しさがよぎり、彼らに知られたくないと自分勝手にも思ってしまう。

「ついさっき二人から連絡があって、桃太君のお母さんが体調すぐれないから、来れなくなってしまったそうだ。俺は、彼らにね、桃太君のおかしな動向に、ケント君について教えたことを、結構後悔しているのだよね。俺がそれらを教えてしまったことから、桃太君の両親は息子が事件で失踪した以外にも悩み苦しみ、挙句には体調を壊してしまった」

 体調を壊してしまったのか――と、護は頭の中で呟き、ショックが襲いかかる。また呟きが、胸を刺してきて痛かった。さらに、桃太の父親は肝臓を患い、一方の母親は昨年に脳梗塞を起こした、との詳細を教えられ、もっとショックで、もっと痛くなった。

(これは、まるで呪いだ……)

 ――事件に絡む、繋がる者たちが苦しみ、さいなまれ、どんどんと不幸になっている。もう、これは呪いのよう。

 呪い、と自らで考えだしてしまったことに、複雑な心境になる。――呪いを謳う建物と、この不幸を結びつけようとする何かが、脳に潜んでいる気配がほんの少しだけし、そしてすぐに消えた。

(例えでの、呪いってだけだ……)

 護はため息をつく。自分へと、そして濁った夜へも向かって。

 高佐は憂鬱に息を吐き、首をゆっくりと左右に振る。それで憂鬱を払ったのか、明るく笑む。

「俺は車内に戻るとするよ。喉が渇いていてね」

 一緒に缶コーヒーでも飲むかい、と高佐に誘われたが、護は首を横に振って断った。胸は痛いし、ケントがいる車内、しかもラベンダーで臭いものだから、今すぐに戻りたいと思えない。小風が吹き、鼻の下に引かれた軟膏を舐めてきた。冷たいと感じた。

 高佐が搭乗口を上っていくのを眺めながら、護ははっとする。参加予定であった涙腺黒バットのメンバーについて、聞き逃したのを気がついた。


 続

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