四幕 なに怪うたい踊りたもれ 2
涙に覆われた虚ろな目、嘔吐まみれの口周りを、彼女は苦し気にこちらへ向いてきた。とても若かった。こどもっぽさある顔立ちから、「高校生か」と護を疑らせ、それから嘔吐の酸っぱい臭いで顰めさせた。
「しぐれちゃん、大丈夫かい?」
高佐が狼狽えるように彼女に尋ね、彼女の傍に寄り、猫背に手を当てる。
彼女は俯き、嘔吐滴る手の甲で口を拭う。繰り返しに小さく頷いてから、今度は水っぽい嘔吐をした。高佐は彼女に案じる声を優しく掛け、背を撫で摩りつつ、手際よくウエストポーチからハンカチを取り出し、それで彼女の口周りと手を拭いだす。その様子を、「彼女は何者であるのか」と気になる以外は、護は特に何も思わずに、腕を組み、黙って眺める。
「あの。……このひと、は、誰ですか?」彼女は俯いたまま、Eな山の谷の間で両手を重ね置き、小さな声をだした。重ね置いた手と手を摩りだす。両手首に天然石っぽい小さい珠が連なるブレスレットが、何重も巻かれてあるのが、護の目に留まる。
高佐が護のほうを一瞥してから、彼女の耳元で「四年前に失踪した遠野奈々さんの弟さんだよ」と述べた。
「彼女は誰ですか?」
と、護は高佐へ訊く。高佐は彼女の背に手を当てながら、笑顔をこちらへ向けてきた。
「彼女は、四年前に失踪した雨戸純君の妹さんだよ」
姉と同じ、『V系バンド五人組失踪事件』での被害者のひとり雨戸純――四年前の事情聴取の時に、護は刑事から彼の顔写真を見せられたのを唐突に思いだす。彼がバンド活動中の化粧しているものと、そうではない化粧をしていない時の二枚の写真だ。この俯いている彼女の鼻は、その彼に似ていると思えるものがあった。事情聴取の時に、護は彼の両親と出会ったが、彼の父親もそんな鼻をしていた。
そこから、護は記憶を辿ってみる。
事情聴取の際に、雨戸純に妹がいるなんて、聞いたことがない。「それもそのはずかな」と、思えてくる。事件被害者の集められた関係者たちの中で、雨戸純の両親はどちらが一番か選べないくらいに物静かで、彼らは刑事に質問された時くらいしか声をださなかった。――そう。どちらも、この今の彼女とそっくり。俯きながら、胸の辺りで両手を重ね合わせ、何だか不安を紛らわしたいのかとも思えてもくる、両手を擦り摩らせながらで。
「気分が悪いなら、おうちに帰るべきだよ。おうちに帰ろう」と、高佐が彼女に優しく諭す。「タクシーを呼んで、おうちまで送ってあげるから」
彼女は俯いたままで、何も答えない。
何で、この女の子はここにいるのだろう、と護は彼女を眺めながら、不思議に思う。八定ショッピングモールで事件が起こった、と高佐から聞かされ、調査をすると聞いて、被害者関係者として参加したくなったのだろうが。こんな女の子に、危険が伴うと予想される調査へ行くのを、高佐は許可したのか。
(高佐、いい加減にしろ。悲しくもなんともないが、俺と高佐は共感しあえないのか……)
高佐が彼女に家へ帰るよう、ほんと優しすぎる口調で説得しだす。彼女は押し黙っている。そんなふたりに向かって、護はため息を思いっきりだし、やれやれと首を横に振らせられた。
「あの。俺は車内へ行っています」
護はふたりから顔を背け、乗車口へ一歩踏みだす。と、高佐から腕を掴まれ、引きとどめられた。
「護君。八定ショッピングモールに調査へ行くことは、誰にもいっていないよね?」
護は頷く。
「もちろん。世間へ事件を解明させるまでの間に、菊野財閥から事件解明の邪魔をされないように、調査は内密でないといけない。――ちゃんと理解していますから」
高佐が頷き返して、腕を放した。「ちゃんと理解している」と示したくて、護はもう一度頷いてから、乗車口へ歩きだす。
乗車口の目前から、そこから化学薬品で作られたラベンダーの香りが放たれてくるのを、護は感じとった。搭乗口から始まる四段の階段の一段に、足を掛ければ、その香りはなかなかに強烈、思わず臭覚を働かせないために鼻の穴の下に手の甲を当てた。車内に消臭剤をまき散らしてあるのか、と、想像させられた。
(もしかして、この香りにやられ、あの子は体調を崩したのか……)
階段を上り切り、運転席の横で立ち止まる。車内の広がりが目に入ってきて、護は口が開いた。
車内は古めかしい内装。古めかしいが、決して不潔感はなく、清潔感がある。両サイドに横並びの二席が並び、最後尾座席に五席が並ぶ。それらは、数えて二十九席。その内、最後尾座席の左窓際からの二席を、窓際に女、その隣に男で埋めている。――がらがらという表現がお似合いの、戸惑わせる光景。
(おい。まだ、たったの二人しかいないのか)
席を埋める男女は護のほうを見て、瞬いている。護はこの立ち位置からだと、彼らの顔しか見えない。
男女どちらも、二十代くらい。女はウェーブがかかった長い栗色の髪に、白過ぎる肌。もう一方の男は、黒髪を紐のヘアバンドで纏めて額を晒している。そのように彼らの特徴を付けて、護は見比べていると、似たようなタイミングで彼らから穏やかに会釈をされた。
護は彼らに頭をちょっと下げ、顔を背けた。運転席側の列にある、前から数えて二番目の二席へ行く。その間に、後部座席のほうから男女が小声で笑いをこぼしたり、ひそひそ話をするのが聞こえたが、見ようともしなかった。「彼らは記者。高佐の会社の後輩あたりか。恋人同士かもしれない」と、考えられさせた。
窓側の席にリュックサックを放り置いてから、その隣に護は腰をおろす。ようやくリュックサックから解放され、身体が軽くなった。
続
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