四幕 なに怪うたい踊りたもれ 1

 やっとこさせ、自分の番であった。

 人混みに身体を揉まれ、押し運ばれるようにして、改札口の前までに辿り着き、護は疲労でできた息を吐かせられる。今はこの駅の混雑状況がピークに差し掛かる、午後七時半頃。ここを通り過ぎれば、多少なり人混みからは解放されるだろう。

 全身に疲労を感じるが、護は両肩にとりわけ疲労を感じる。背負うリュックサックによっても、疲労させられている。普段の通学時よりもずっと重みがある。

 ――この重さからは、まだ解放されはしない。

 改札口を通り過ぎてから間もなく、護は背後から肩をぶつけられた。そのほうを見れば、赤ら顔のサラリーマン風の男からにやつかれ、見られていた。酔っ払い、わざと肩をぶつけてきたのか、と、すんなり察する。男と目が合うと、男から目を大きく開かせられ、素早く顔を逸らされ、足早に追い越されていった。

 無視をすべきだ、と護は考えていたが、無視を演じる労力を費やす必要がなかった。ナチュラルに、男の消えていく背に向かって、舌打ちがでた。先ほどから無視を演じさせられてばかりで、鬱憤が溜まってもいる。

(爆発しそうだ。ここから解放されたい)

 駅を出た。大気汚染の濁りある紺色の夜に覆われた、多彩なネオンが光る、人間を道楽へいざなう看板で飾られる街並みが、護の瞳に映しだされた。人混みは駅内と大して変わらない。ここにいる人びとの面は、どことなく疲れ、哀しくて、ふしだらを宿しているものばかり。

 護は空気を鼻から吸う。湿り気あり、生ごみを想像させる匂いがちょっとある。今朝は小雨であったのを思いだす。本日、初夏の六月二日。ほの温かく重たい風が前方からやってきた。

 ――なんとも、うんざりだ。

(なんとも、なんてうんこ。もう、吐き気しかない)

 ひとを避けるようにして、駅前に大きく広がる停留所へ、護は歩きだす。停留所には、何台ものバスが各々に目的地を示す看板を横に携え置き、整列して、乗客を待って扉を開けている。バスに紛れて、タクシー、個人のものらしい車が数え切れないほど停車もしている。

 護は停留所につき、立ち止まる。排気ガスの狭間から、高佐を探して、見渡す。ここはひとの往来が激しく、視界がひとによって邪魔される。携帯電話を取り出し、高佐に連絡を入れる。高佐からすぐに応じられ、「黒の町温泉行きのバス停近くにいる。そのバス停番号は35番」と教えられ、通話状態の携帯電話を耳に押し当てたまま、教えられた名と番号を見探す。高佐からの誘導もあって、それからすぐに見つけられた。

「護君。ここだよ」

 高佐が高らかに声をあげ、手をこちらへ振るってくる。なんともよきな、ほとけ笑み。高佐の身の装いが、ポロシャツ、ジーンズ、スポーツシューズと、護は目に入ってきて、爽やかコーディネイトとの感想だ。腰には、容量ありそうなウエストポーチが巻かれている。

 護は黙々と高佐のもとへ歩みよった。高佐と対面して、短い挨拶をやった。

「今日も、先日と同じで怖い顔をしているね。俺と会うからと、また不機嫌?」訊き、高佐は苦笑した。

 いいえ、と護は正直に否定した。高佐によって不機嫌はない。

「疲れているだけですよ。今日は朝早くから大学の講義に出席もしましたから」

「へぇ。今夜、調査をするというのに、大学へ出席したの。偉いね。真面目だね」

 高佐から感嘆される口調でいわれ、護は首を傾げる。特に偉いとも、真面目だとも、思えない。普通のことをしている。欠席する時は、体調が悪い時にでしか考えられないことだから。――たとえ、体力を使わせられると想定できる予定があるにしても、だ。

「あのさ。本当に、八定ショッピングモールの調査に参加したいの?」

 高佐が声の音量を下げて、聞いてきた。護は顔を左右に振って、往来するひとの流れを眺めてから、「ひとに聞かれるのを恐れているのか」と考えて、頷く。

「八定ショッピングモールの調査することは危険が伴う、と俺は想定している。……そう、稚恵たちが失踪してしまったような危険がね。それを理解もしている?」

 念を押されてきて、「もちろんだ」と声にはしないが、護はゆっくり頷き、腕を組んだ。先々月にての四年ぶりの再会の時に聞かされた高佐からの話で、訊かれなくても、既に危険を十分に承知している。

「先々月にもいった通りで、意思は揺るぎませんよ。姉さんが失踪した場所をこの目で見なければいけない。母さんのためにも、事件を解明させなければならない。俺は、この高佐さんの調査によって、事件は必ず解明されると思っています。危険なんか、ちっとも怖くないですね」

 奈々が失踪したように、もしも自分が失踪することになっても、護は全く怖くないのだ。失踪なんか怖くない。この世界からいなくなることへの未練など、疾うの昔に捨てたくなって、アンモン角の孤島に置いてある。

 高佐は大きく頷いた。護は頷き返して、「それで」からで始めた。

「俺たちはどうやって八定ショッピングモールまで行くのですか? バスを乗り継いで、八定ショッピングモールがある間仲町まで行くのですか?――人混みに紛れて、調査が露見されないよう、目的地まで到着できるように」

「バスではない。あれ、でだよ」

 高佐が立てた親指を、彼の後ろのほうへやる。そこには、観光へ行く目的に使われていそうな中型のバスがある。それを、護は指さし、あれかと聞けば、「そう」との答えを与えられた。

 うん、と護は頷く。そして額に手を当てた。――ちょっと、理解に苦しめられる。バスにしか見えない。

 バスではないとする中型バスを、護は観察する。乗車口は開いたままになっている。車体は白い、古さを感じさせる、ヘッドライト近くには掠ったような無数の傷がある。やはり、観光で行く時に使われる。そう。例えば修学旅行や、団体ツアーに使うバスに見える。

「バスに見えますが」

「うん。バスではあるけど、バスじゃないよ。俺がレンタルした車だ。だから、あれは監視カメラが備わっていて、足がつくような公共バスのような交通手段じゃない」

「こんなツアーみたいなバスで、目立ちそうですけど」呟いて、護は首を傾げさせられた。「もしかして、大人数で八定ショッピングモールを調査しに行くのですか?」

「今のところ、十名の予定だね」高佐が笑み、火のついていない煙草を指先で挟んでいた。

「十名とは、俺を含めてで?」

「うん。護君を含めて、で」

 ――と、いうことは、自分と九名の新聞記者で、八定ショッピングモールを調査するのか、と護は考えだす。高佐と四年ぶりの再会を果たした日に、八定ショッピングモールを調査すると教えられた時、高佐は誰と調査へ行くかはまだ決めていないと教えてきた。「会社の仕事仲間たちを誘うかも」とはいってきた。

(それにしても、十名を乗せるにしては、大き過ぎる乗り物だ……)

 護はバスを見たまま、声をだす。

「十名にしては、こんなバスは十分過ぎませんかね。バスをレンタルするの、高かったのではないですか?」

「うん。ちょっと十分過ぎるね。本当はもっと小型のバスか、大型ワゴンをレンタルしようとしていたのだけどね、このバスはレンタル格安だったのだよ。新台の小型バスや、大型ワゴンを借りるよりも、ずっと安かったからレンタルした」

「へぇ」

「それに、車内に余裕があるスペースがあれば、疲れたりした時に、寝たりして休めたり、くつろげてもいいかなぁとも考えた。八定ショッピングモールまでの道のりで、乗り物酔いする人も出てくるかもしれないしね」

「寝て休むか。それはいいですね」護は疲労が溜まっている肩を回せば、凝り固まっていて、こきこきと鳴った。八定ショッピングモールに到着するまでの間、寝て休もうかと考えだす。

 取り合えずは、と、護はバスの開いている乗車口のほうを見た。早いとこ、このリュックサックを背負うのをやめたい。先に車内へ入っていて、休んでいてもいいか、と高佐に尋ねよう。と、すると、乗車口から、小柄な女が口を右手で覆いながら、姿を現した。

 たぶんDか、Fかもしれない、ふたつ横並ぶ丸みあるものが、駆け足によって白いレースの半袖ブラウスの下でリズミカルに跳ねる。紫色の毛先な黒いミディアムヘアに、膝丈の黒いスカートは、どちらも柔らかそうな質感で揺れ乱れる。踵の低いロングブーツで身軽に地へ降りたち、彼女はこちらへ目をくれることなく、バスのヘッドライトのほうへ曲がった。

 ――と、護は見えて間もなくだ。彼女が噴きだすように嘔吐したのが、ばっちり見えた。


 続

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