三幕 NOBODY NEEDS 不愉怪 3
また、ベルの音がした。エレベーターの入り口の前にセンサーがついていて、そのセンサーに人が触れれば音が鳴る仕組みなのだろう、と護は考えつつ、エレベーターに乗って立ち去る客を見送った。相変わらず店内は、席が三割埋まりの、バイオリンの曲が流れたまま。
護は扉の閉まったエレベーターを見ながら、珈琲を啜る。珈琲は変わって、かなりぬるたくなり、残る量は二割程度ってところ。
護は高佐を見る。すると、すぐに高佐と目が合ってしまう。高佐はついさっきと同じで、眉間に皺を縦に二本入れ、思いつめた感じの面をして、右手の人差し指と薬指で火のついた煙草を挟んでいる。
「教えませんから。教えたくないです」
護はいい切った。どんなにせがまれても、母親については教えたくない。相手が誰であろうが、どんなに親しい間柄であろうが。――どんなに親しい間柄なんて呼べる者が、はたして現在いるのだろうかと考えれば、そんな存在はいないけれども。
高佐は頷き、白い煙を口から吹かした。
「いいよ。教えてくれなくて。……逆に、悪かったね。知りたがったりして、悪いことをした。そっとしてほしいことだよね」
それは違うはず、と護は思い、何の気なしに天井を見る。クリーム色の天井だ。高佐の考えでは、思い起こさせれば、俺が悲しくなるからとしての、そっとしてほしいだ。別に思い起こしても、悲しくなりはしない。
この頃、悲しみはどこかへ姿を隠している。この頃は思い起こせば、ただ自分の無力さと不甲斐なさを実感させられ、その不愉快によって一日乱される。今、このように触れたことで、憎たらしくも、不愉快が自分を乱してこようとする。
(やっぱり、会わなければ良かったのか……)
護は、こうして高佐と再会したことを後悔しだす。「お願いだから会ってほしい」と高佐から電話で散々願われ、気にもなったから、会おうとしたことが誤りだったか。
取材のために呼び出したのかも、と護は思えてもくる。失踪事件から四年経て、その事件の被害者関係者の現状についてでも記事にするために。
護はため息をつき、テーブルに頬杖をつく。取材だとしたら、これ以上ネタを与えるのは御免被る、だ。さっさとこの場を切り上げてしまいたくなった。テーブルの木目を見つめながら、切り出す。
「あの。今日俺を呼び出したのは、お互いの近況を教え合うためでしょうか? それだけが用ならそろそろ失礼します」
いいや、と高佐から否定された。
「はぁ?」
護は裏返った声で聞き返して、高佐を見やる。高佐は真面目な面をこちらに向けていて、煙草を灰皿にもみ消し、両手をテーブルの下に隠した。
「まぁ。今日呼び出したのは、近況を聞きたかったのもある。俺は君のことを気にかけていたから。今日、君を呼び出したのは、君を信じてあげなかったことに謝りたいのが、第一の目的だ」
信じてあげなかった。俺に謝りたいのだと、と護は心の中でぼやいて、困惑する。彼から謝られる事は何であろうと考えだしたら、あの出来事にしかたどり着かない。
――俺に何で? 俺になんて、困るよ。
護の眼と耳から脳への伝達では、高佐は薄笑いしながら、そういい放ったのだ。四年前、五度目の被害者関係者が集められての事情聴取の際、被害者関係者たちに、刑事たちがいる前で、だ。五度目の時、と、決して忘れさせやしない。
奈々たちが乗っていたハイエースは、
護は思い起こしたことで、己の無力さに悔やまれる。また四年前の自分は、なんて惨めったらしく、弱かったのだろう、と憎たらしい。
――奈々は火弥山で失踪したのではない。別の場所で失踪した。
そう、小声でも、四年前に、護は主張することができなかった。上手く喋れない、呂律は回らない、母の胸にしがみついて泣いてばかりいた。
――涙腺黒バットは、火弥山で遭難して失踪した。若しくは、火弥山で事件に巻き込まれて失踪した。
あの五度目の集った時、だ。あの場にいた多くの者がこのような推理を下し、納得している中、親身に接してきてくれ、頼りがいがありそうな高佐に、「この人なら分かってくれる」と護は期待し、奈々たちが火弥山ではない場所で失踪したと何とか伝えた。だけど、あのように撥ね退けられ、それ以降からは、護のことを避けるようにして遠ざかった。
(まさか。今更になって……)
護は不可思議で堪らない。四年という月日があったのに、今まで呼び出すことさえしなかった。なのに、あの出来事を謝りたいというのか。
また、胸に引っ掛かる。――高佐のいう「信じてあげなかった」とは何を意味するのだ、と。
続
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