三幕 NOBODY NEEDS 不愉怪 1
大聖堂前の広場で散らばっていた鳩たちが、一斉に飛び立った。青年は彼らを目で追って、見あげさせられる。青天が広がっていた。雲はどこへあるのやら。鳩たちは群れになって、雲に邪魔されることなく、穏やかな河が流れていくように南東へ飛んでいった。
青年は彼らを羨望のまなざしで見送ってから、大聖堂とまた向き合った。今日も大聖堂の中央ドームのてっぺんでは、我らの黄金のマリアが目を閉じて祈っている。太陽の恩恵を受けて彼女の頭の後ろにある後光――天使の輪は輝いてなんと眩しいのだろう。
もうすぐしたら、大聖堂の鐘が打たれる。その鐘の音で、大聖堂周囲一帯は覆いつくされる。大聖堂付近では、青年と同じように鐘の音を待ち、鐘のあるほうを見あげ佇む者たちがちらほらといる。
さて、大鐘は何回鳴るのか。
午後三時を迎えるのならば、三回鳴るのだろう。けれども、はたして午後三時なのであろうか。もしかしたら午後二時かもしれない、と青年は迷いだす。
(二時なら、二回だ。今、何時、時間……)
時間を考えだしたことから、青年は、本当の今の時間が気になった。頭の中にあるパリが、一気に引き剥がされる。
現実は、ここだ。都心部の大型書店、三階の一角にある本棚の前で佇む青年へと還される。――こうして、鐘が打たれることはなかった。
(そう。そうなのだ。現実はここなのだ……)
青年は両手で開き持っていた本を右手だけで持ち、左手首に巻かれるデジタル時計を見る。10:42と表示されている。随分と読み更けてしまっていた。
まだ物語は始まったばかり。これからだ。最後まで読み終えたい、と、彼は手にする本を買うことに決め、工学に関する文献三冊が納まる籠の中に加えた。会計の列に並びだしてから、本来なら大学の講義で必要な文献であるこの三冊だけを買う予定、この三冊は高価な学術書ということを考え、買うことに少しの躊躇いは生じた。
彼は会計を済ませると、買った本をリュックサックに詰め込み、本屋から出た。刷られた書物特有の紙とインクの匂いから解放され、本屋の前を横切る歩道に並ぶ満開の桜の匂いを感じとる。自分が先ほどまでいた十五世紀のパリほどまでとはいかないが、この今の四月八日も美しい青天である。
本屋の入り口付近で立ち止まり、また腕時計で時刻を確認してから、斜め向かいにある、赤茶色のレンガを積んだような外装の雑居ビルを見やった。唐突に、背中に気怠くさせる重いもの、鉛でもぶら下がってきた気がした。待ち合わせの場所があるあのビルへ行くのに、気が進まない。待ち合わせの午前十一時までまだ時間があり、また本屋に戻りたくもなる。
青年は息を大きく口から吸って、気を引き締めさせてから、雑居ビルへ歩きだす。一歩進むごとに、徐々に緊張してもくる。雑居ビルの入り口に到着して、そこにある各階フロア案内板を読む。三階に『ひまわり喫茶店』と待ち合わせ場所にされた名があって、ちょっとだけ驚かされた。
この街は、本屋が集う街。本が好きな彼は、この街に中学の頃からひとりでもよく赴く。この雑居ビルとすれ違うことは、数えきれないほどあった。なのに、こんな喫茶店があるなんて、気がつかなかった。案内板で喫茶店の名前を記すインクは所々に剥がれがあり、真新しく記されたものではなく、つい最近に開店されたとは思えない。
――関心がないものは、見落としやすいもの。
と、青年は考えさせられた。関心があれば、自ら気がつこうともする。関心がないものは、盲点となる。
青年からして、二世代くらい前の構造のエレベーターに乗って三階に赴き、扉が開けば、扉を越えた先からレトロな雰囲気の喫茶店が広がっていた。クラシックで、落ち着いた、バイオリンで奏でる曲が聞こえてきた。コーヒー、真っ赤なナポリタンに、ハヤシライスを連想させる匂いが漂う。店内は三割程度の席が埋まっていた。
青年がエレベーターから降りれば、金属のベルを振るったような音がどこからか鳴る。その音に反応してだろう、レジにいたうら若いウエイトレスが彼に近寄ってくる。彼女と目前となった時、店内の奥から男の高らかな声があがった。
青年は男の声がしたほうを見る。窓際にある二名用の丸テーブルの席から、背広姿の三十代の男が椅子から腰をあげ、こちらへ手を高くあげて振ってくる。
「
護。遠野護とは、俺のことであるよな、と青年は自分に問いかけ、辺りを見渡す。男に対して反応を示す客はいない。ここには、そんな名前の者は自分しかいないはず。
ならば、俺の名前を呼べる、あの人物こそがあの高佐だ、と彼は判断した。親しい間柄って感じの笑みをこちらへ向けてこられ、胸の底で小さな亀裂が開き、そこから不愉快がゆっくりとしみ出てきた。その不快感から、思わず胸を手のひらで擦りつけて撫でた。
パリにいるただのひとりの青年に戻りたくなる。けれど、戻れない。それは許されない。青年は、この世界にいるひとりの青年、遠野護でいることに留まらなければならない。
続
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