二幕 涙腺黒バット怪散 9

 視界を惑わす靄がかかった、どこからも音がしてこない闇に包まれて、建造物は巨大に聳えていた。奈々が抱いていた想像を打ち砕かせるほど、遥かに超えた巨大。今まで見てきたスポーツスタジアムよりも大きかった。その建造物との距離が間近になって、大きさに圧倒せれて、足をとめさせられた。

 ――こんなものが廃墟だというの、と奈々は心の中で呟かされた。

 懐中電灯で建造物を照らし眺め、また抱いていた想像を打ち砕かされる。建造物の外観は倒壊しかけではなく、半壊さえしていない。靄が邪魔をする中ではあるが、建造物の外壁は壊れておらず、ひびもない。建造物の外観は三割が灰色の壁、七割がガラスの壁であるが、埋め込まれるガラスはひとつも割れている様子ない。

 この建物は生の息をとめているのではなく、夜のために寝ているだけ。

 そんな印象が奈々に背後から静かに忍び寄って、襲い掛かってきた。

 歩いている道の終わりは、建造物の入り口。――それは、崩壊していた。入り口に設置されていたであろう、両開きのガラス扉が無残に割られ壊され、開けっ放しになっていた。奈々が初めて廃墟らしさを感じさせられた。扉の両脇には、翼を高らかに開け広げた鶴の銅像が対面して、対をなすように置かれている。

 隣にいるかなでが繋ぐ手に力を込めてきた。

「じゅん君たちはあの中へ入っているのかな?」

「どうなのだろうね」

 奈々はかなでを引いて再び歩きだし、建造物の入り口の前まで辿りついた。開けっ放しになった扉は建物に入るための横長の四角い穴、三メートル程の高さ、大人が一度に六人ほど余裕に通れる横幅で作っている。

 穴の向こうは真っ暗で、奈々は肉眼では何も見えない。懐中電灯で照らし、中の様子を伺う。扉の真正面には中央に亀の石像が飾られた、水が出ていない円形の噴水らしきものが見えた。それ以外はこの懐中電灯の力だけでは見えない。

 奇妙、と奈々は思わせる。穴から冷たい空気が流れでてくるのを、肌で感じる。

 奈々は携帯電話を取りだし、確認する。通信状況は非常に悪い。誰からも着信はない。表示された現在時刻を計算すれば、門からこの入り口までの距離は徒歩で約十五分かかると理解した。

「じゅん君はどこにいるのだろう」

 かなでは呟くようにいって、奈々から手を離すことなく、使われていない手で携帯電話をいじりだす。誰かにメッセージを送ったり、電話をかけたりしだす。誰からも応じられないごとに、見るからに彼女が焦っていく様子を、奈々は傍から伺う。

「なんで誰も電話に出てくれないの?」

「まず、ここは通信環境が悪い。ここの通信環境の問題によって、桃太たちの携帯電話と私たちの携帯電話が通じることができないと考えられる」

 奈々は述べた。表情からしてかなでにちゃんと理解されていないと思えたが、頷かれて続ける。

「そして、電話に出れない状況か」

「電話に出れない?」かなでが口を挟み、怯えた顔になる。「……あれに出会っちゃったから」

 あれ、がまた出た――と、くだらなく思い、奈々は少し笑ってしまった。あれとは、おかめっぐ君とでもいいたいのだろう。

「ここを監視する警備員に捕まったと考えられる」

「警備員? ゆっくんは今日警備員はいないっていっていたけれど」

「さぁ。どうなのだろう。本当なのかどうかね。なんせ、こんな厳重に守られている場所よ。こんな広大な場所でもある。わたしからしたら、たったひとりがここを警備しているように思えないわね。二、三人が警備していそう。門の近くに、警備員のための住まいのような小屋があったし」

「なるほど。確かに」かなでは目を泳がせる。「警備員に捕まっているなんて考えてもいなかった。どうしよう……みんなが捕まっていたりしたら、かなでが助けてあげなくちゃ」

 ――あなたは何の助けにならないよ、と奈々は教えてあげたかったが、面倒に思えてやめた。もしもあの三名が警備員に捕まっていたとしたら、自分が警備員にいい訳をし、取り繕わなくてはならない。誰も頼りにならない。

 奈々はため息をついて、口を開けた。

「それか、わざと電話に出ない状況か」

「わざと電話に出ない? やっぱり、わたしが返信をすぐにしなかったからと怒っているから」

「じゅんが返事をしないのは、怒っているからも考えられるわね。あのじゅんが怒っていて、桃太や哲也さんに指図して連絡に応じないようにさせてるとも考えられる」

 のか――と奈々は疑問詞をつけたくなった。果たして、あの唾吐き男が怒っていたとして、怒っている対象はかなでなのか。

(わたしに対してか……)

 新たな別の嫌な予感が、奈々に生じてしまう。

「だけど桃太が……じゅんの指示で連絡を無視するのかな?」

 嫌な予感を打ち消したかったのだろう、と奈々は自分のことを理解しつつ、かなでに予感の判定を委ねようと聞いたのだと思う。かなでから、「分からない」という風に首を傾げられてから、悲し気な面持ちになって目を潤ませた。

「みんな、わたしのことを怒っているんだ」

「そうとも考えられないよ」と、奈々はかなでに否定してやった。自分に対して怒っているとの疑いをひた隠して。

「そうかな?」

「うん。こうしてわたしたちをここに呼び寄せるため。一緒に肝試しに楽しみたく、参加させたいがために、わざと電話に出ないでいる。わたしたちを心配させてここまで来させる手口かもね」

 わたしが知る桃太ならこういうことをするやつだ。わたしが知る桃太ならば、との続きは、奈々は胸の中だけで留めた。

 なるほど、とかなでは相槌を打ち、悩むような顔になって閉口する。彼らの動向について考えだしたようだ。否定してこないとは、つまりわざと電話にでないという可能性がある、と奈々は判断する。

(ならば、わたしも悩むか……どう動こうか)

 頭をふる回転させたくて、奈々はそのためのスタンスへ入ることに決める。ショルダーバックからミント味の板ガムを一枚取り出し、口の中へ入れ、噛みだす。口の中でミントの刺激が広がる。刺激が舌の上で踊る。勝手な思い込みなのだろうと考えてはいるが、この刺激が頭をふる回転へといつも導いてくれる。

 奈々は刺激により痺れた舌でガムを口の中で弄びながら、建造物へ通じる穴を眺める。彼らの気配を掴むために耳を澄ましてみる。懐中電灯の手助けで穴の向こうにある亀が見える程度で、只管耳に入ってくるのは無音だ。

 次第に舌の痺れが和らいできた時、穴の向こうから微かに男が発する悲鳴を捉えた。

「今悲鳴が聞こえたっ」

 かなでが怯えた声をはりあげ、穴のほうを見つめ奈々の腕に抱きつく。

 自然と奈々は足が動きだす。懐中電灯を前方へ照らしながら、かなでの手を引き、穴へ向かって進みだした。かなでから抵抗と思われる後ろへ引かれ、また言葉が背中からしたが左程気にしなかった。それ程強い抵抗ではなく、かなでから手を離されもしないから。

 穴を通り抜けて、奈々は立ち止まる。間近に照らされたことによって、亀が飾られた噴水らしきものが、水を枯らした噴水であると確かなものに変わる。噴水は通り抜けた穴程の直径であった。

「ここ、寒い。怖い……」

 かなでが呟く。奈々からして、ここは寒いというより、よく冷えている。かなでの呟きの意味は、幽霊が原因であろう。――だが、自分は幽霊と思えない。何故ここは冷えているのだろう、と不思議に思う。

 辺りを懐中電灯で照らして様子を伺う。この噴水を中点とした円形の広場にいる。右を照らせば、「案内デスク」と記された看板が天井から吊られ、その下には銀行窓口に似た横長のデスクが置かれる。左を照らせば、手前に大きな扉のエレベーター、その奥には上へあがる階段に、下へさがる階段がある。前を照らせば、噴水の奥にはさらに大きな広場が続いているようだ。

 奈々は前進することにし、噴水奥にある広場へ出た。前進するごとに、目を疑る。懐中電灯で辺りを照らしていけば、この広場は先ほどと同じ円形であるが、四倍くらいの広さ。ここが円形であると視覚させるのは、無数の店の建ち並び方によって。広場の中央には、春を感じる緑色の葉を円錐に整えられた樹々が、円を描いているように植えられている。遊園地の中にありそうな、夢の世界的でもある西洋の街にいるようだ。古さのない、モダンで華やかな内装。――哀愁、荒廃、忘却とされるものを欠片にも感じない。

(これは、一体……これが廃墟?)

 奈々がさらに広場に立ち入ろうとすると、かなでから立ち止まられ、手を後ろへ引かれた。かなでが明らかに怯え、今にも泣きだしそうな顔をしている。

「駄目。あちこちから、いっぱい感じる。ここから出よう」

 奈々は苦笑した。また、あれ、これ、が始まるのは、もううんざりだ。

「かなでちゃんもさ、悲鳴聞こえたでしょう? さっきの悲鳴はあいつらの内の誰かでしょう。気にならないの?」

 確かに今、奈々はさっき聞こえた悲鳴が何を意味するかが気になる。だけど、それ以上に、この建造物について非常に気にならせ、知りたくなった。

「気になるよ。心配だよ」と、かなでは小さな声で答え、奈々の手をちょっと強く握りしめた。「お願い。わたしの手を絶対に離さないで」

 奈々はため息ついて、かなでの手を引いて歩きだす。さらに奥にこの円から二又に別れるようにして、中央を吹き抜けとして散歩道風の通路があった。左の通路には「おふじ通り」と、右の通路には「ひのき通り」と案内板がある。

 奈々は迷わないで、左を選んだ。


 続

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