一幕 怪幕 7

 三郎が四杯目の紅茶を半分くらい飲み終えた時、居間の柱時計が鐘を打ちだした。鐘は十一回打たれた。

 あの時計は完璧な時を刻まない。自分の叔父から譲り受けた随分と古い品物で、数年に一度は寿命を迎えそうになり、その度に修理へ出される。近頃は実際よりも速く時を刻みだす。

 今は凡そ午後十一時十数分だろう、と三郎は大まかに計算した。先月に仕事関係の友人たちと国外でクルージングを楽しんだ話はここからが醍醐味で、鶴子から続きをせかされたが、する気にならなくなった。

「ねぇ。鶴ちゃんはそろそろ寝たほうがいいよ。夜更かしはお肌に良くないよ」

 三郎は鶴子に笑む。鶴子は笑顔であったのが、如何にも物憂な顔へと変わった。

「その。今夜わたしは眠いって感じがしませんもので」

 なんとなくだが察っせられ、三郎は気まずくさせられつつも、聞きたくなった。

「どうして?」

「その。水野さんのことが気になって。あと、モールのこれからのことを考えてしまって」

 やはり、と三郎は察した通りだと、ひとり納得させられた。今日はあまりに彼女に余計なことを話しすぎていると後悔させられてくる。

「ごめんね。心配かけさせちゃってさ」

「いいえ。心配して、普通のことだと思います。わたしじゃなくても、きっと誰でも水野さんのことは心配になります。あと、モールの先行きは、わたしにも関わってくることですから」

 三郎は鶴子から顔を髪で隠すようにして俯かれてしまった。艶やかで漆黒の頭頂部を見つめつつ、口を開く。

「僕も疲れていて、頭が馬鹿になっちゃっているのかなぁ?」

 と、わざと茶化してだけど、素直に述べ、笑ってみせた。鶴子から素早く顔をあげられ、しげしげと見られた。自分の女友達を笑わせる調子で、マグカップを気分良さそうに嗅ぐ猿芝居を披露してみせる。

「ああ、目覚めの香り。三分したらティーバッグをお湯から引き上げなくてはいけない紅茶を、わざと十分待ってから引き上げたからこその香りだ。馬鹿な頭を目覚めさせるのに、相応しい苦すぎる紅茶と共にさ、僕が改めて考えてみれば、水野は自殺なんかするような玉じゃないね」

 と三郎は嘘を述べ、続ける。

「あいつは今迄いろんな仕事のトラブルに巡りあって、えんえん泣くも、トラブルと立ち向かい、トラブルを解決させてきた。自殺なんかするような玉だと判断していたら、社長の座を僕は与えなかったわけだしね」

 これは嘘ではない、三郎が実際にこの目で見てきて、事実であることであった。春日の事故死が起こる前までの水野に対しては、自殺にまで辿り着ける勇気のある人物とは考えていなかった。

 (しかしながら、今の水野は病みにより背中を押されそうで……)

 はい、と鶴子は納得するかのように、大きく頷き、口をちょっと笑ます。

 まっ、と三郎は明るい声をあげてみせる。

「モールの先行きについても不安になることないよ」

「本当に?」

「うん」

 鶴子は首を捻らす。

「八定モールを閉鎖させる」

 三郎は思い立ったことを口走った。そして、いったからには、そうすると決意する。鶴子から口をあけられて一声もだされない。

「水野のため、みんなのためにも、閉鎖させちゃったほうがいい。悪い思いがする場所は記憶から消せるように、消しちゃったほうがいい。あそこに働いている人たちは醜聞や、幽霊がでるとの噂から、毎日どんどん自主退職している。今日水野は『耐えられない』といってもいたし、事故が事件になった後からか社長を辞めたい雰囲気を醸しだしていた。社長を辞めたいのだろう。水野のためにも社長を辞めさせ、休ませてやりたい気持ちもある。毎日のように人がどんどんと辞めていき、水野がいなくなったら、経営は破綻。正直いって、既に経営が成り立っていないしね」

 鶴子は口を閉じ、憂鬱な面になる。三郎は彼女からの発言を待ち、続ける。

「僕ね、良くない噂もお友達から聞くのよ。今、日本の景気はとてもよろしいよね。だけど、近い内に景気が一気に悪くなるって聞くのよ。だから、俺はその前に畳んでおくべきだと思うのよ。――僕のためにも、良くないからね」

 あの、と鶴子は小さな声をあげた。

「あの八定モールは、おじさんが一生懸命に構想し、情熱を注いで作ったモールではないのですか?」

「うん。そうだね。けれど、あそこが運営され続ければ、きっと誰かしらが苦しみ続けるよ」

「本当に、嘘や、冗談ではなく、閉鎖させるのでしょうか?」

 三郎が頷けば、鶴子から目を泳がされた。一度決めたら、絶対に揺らがないという信念を自分は抱いている。

「今すぐに閉鎖させるのですか? 明日とか」

 三郎は紅茶を啜りながらその問いを受け、紅茶を吹き出しそうになった。明日に閉鎖なんて、ご冗談のほどが過ぎる。紅茶を飲みこんでから、苦笑する。

「明日に閉鎖をする訳ないじゃない。徐々に閉鎖させる。俺はそこまで関わりのある人間、周囲の人間のことを気にもせずに、身勝手に物事を進める男じゃないよ」

 鶴子はひと息吐き、胸を苦しげに撫でさする。

「そうですか。おじさんのお考えに納得ができ、賛成できますが、悲しくなりますね」

「悲しまないの。モールを閉鎖させたら、また何か、みんなを楽しませるようなものを作るよ」

 三郎は高笑った。



 続

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