一幕 怪幕 6
外から窓を通じて居間へ雨音が入ってくる。鶴子が耳を澄まさなければ、気がつかない音量の雨音。その雨音が始まったのは、午後八時を過ぎた頃と覚えている。
今でも雨音は続く。窓に細かな水滴が張り付いてくるのを、鶴子は眺め、外で穏やかな雨が降るのを思い浮かべる。
居間にある柱時計が午後九時を示し、九回鐘を打つ。気まぐれに、鶴子は腰掛けるロッキングチェアを暫し揺らす。膝上に置かれた愛読するファッション雑誌を閉じ、扉へと目をやり、少し待つ。扉が開くのを期待したのだが、期待が外れ、肩を落とした。
もしかしたら、と鶴子は考えだす。
三郎は水野との電話に疲れて、既に眠ってしまったのかもしれない。昨日、三郎は早朝から仕事のためにここから遠く離れた間仲町へ自分の運転で仕事へ赴き、帰ってきたのは深夜だ。
書斎へ赴こうか。どうしようか、と鶴子は迷いだしながら、考えもなしに雑誌のページの角を折り、折れたら次のページに移り、また折る。次々と、ゆっくり、ページを折り進めていく。
扉が開く軋む音がして、鶴子ははっと扉を見た。赤いコーヒーカップを片手に、眠たそうな顔をした三郎が居間へ入ってきた。
「おや。鶴ちゃん。ここで何をしているの?」
ここにいれば、また必ず会える気がしたのだ、と鶴子は予想が的中したことに、思わず笑みが零れる。同じ血が流れる故に、三郎のことはなんだって分かると自信があるのだ。
「ここ、暖炉があって暖かく居心地がいいから、寛いでいたのですよ」と鶴子は嘘の言い訳をする。――いつも三郎がそう思い、口にするように、とまでは、教えなかった。恥ずかしくなってしまう。
「そうだよね。ここはこの家で一番居心地のいい場所だ。僕たちは気があうね」
三郎は居間にある古ぼけた椅子を掴み、鶴子からやや離れた場所に置く。椅子に腰掛け、鶴子に笑む。先ほどお喋りした時よりも近い距離を彼から作ってくれたことに、鶴子は嬉しくなり、いけないと思うも胸が早まる。
「裕大君はもう寝ちゃったよね?」
「ええ。いつも通りに八時半に自分のお部屋で眠りについちゃいました」
「鶴ちゃんが寝かしつけてくれたの?」
鶴子は頷く。裕大は自分が絵本を読み聞かせをしないと、眠たくならず、眠ってくれない。寝ないで、家の中で騒がしく遊び続ける。今夜も絵本を読み聞かせ、寝かしつけた。
「ありがとうね」三郎は軽く一礼をし、「雪子さんもいつも通りに七時で帰宅した?」
「はい。もちろんですよ」
といって、鶴子は忘れていたことを思い出し、あっと声をあげた。三郎から首を傾げられる。
「キッチンにある冷蔵庫の中に、おじさんのためのお夕飯があります。雪子さんがおじさんのために用意したのです。お腹がすいているなら、どうぞお召し上がりになったら如何でしょうか?」
「有り難いね。だけどお腹空いていないや。明日の朝食べることにするよ」
三郎はちょっとだけ苦笑してから、コーヒーカップに口づけ、啜る音をたてる。目の下にあるうっすら黒い隈を指で擦った。
「眠たいのですか?」眠たそうで、食欲ない三郎のことが鶴子は心配にさせられる。今日だけではなく、一昨日の彼もそうであった。「眠いなら、寝たら如何でしょうか?」
「別に眠くないよ」
本当かしら、と疑いつつ、鶴子は気になることを尋ねることにした。
「水野さんとお電話できましたか?」
「うん。できたよ。鶴子ちゃんが僕のお仕事場から立ち去った後にすぐに、水野から電話が掛かってきたのよ」
「あら。そうなのでしたか?」
「うん」
「どんなご様子で?」
鶴子の予想からして、水野は三郎に泣き甘えついて電話をしてきたのだろう。鶴子は水野を自分が小学生の頃より知る。水野と三郎は同じ大学出身を縁に友人となった、と三郎から教えられている。
水野という男は三郎に惚れ込んでいる。三郎よりも年上のくせに、悩みがあれば、三郎の都合お構いなしに電話をしてきたり、わざわざ三郎宅に赴いてきて、三郎に泣いて相談する。一方で、三郎以外の人間に対しては随分と強がってみせている、と思う。水野は鶴子に対しては強がりは見せないで、気前のいい、優しいおじさんといった態度で接してくる。三郎に会うためにこの家を訪れる時には、手土産として鶴子に女性が喜びそうな小物をくれたりする。
水野があの春日の事故に巡り合う前は、鶴子はまずまずに好きではあった。三郎の友達であり、プレゼントをくれるから。
鶴子は溜め息が出そうになる。
(嫌いになりそう。三郎の優しさに甘えすぎている。家族でもないくせに……)
三郎が苦笑した。
「すごく泣きながら謝ってきたよ」
やっぱり、と鶴子は冷ややかに思いつつ、相槌打つ。
「おかしなことをいって、ごめんねって。自分は病気だから、自分をコントロールできないのだって説明してきたよ。この前、僕に幽霊を見たといってきた後に、弁明してきたみたいにね。僕の予想通りだったよ」
事故に遭遇したことにより病んでいる。水野が可哀想だ、と鶴子は思えるので、嫌いになれずにいる。「可哀想に」と同情して述べた。三郎から頷かれ、悲しげな顔を向けられる。
「ほんとに可哀想だよ。電話越しにえんえん泣いてね。どんなに慰めても、泣き続けちゃってね。水野が泣き止むまで、慰めて、話をいくらでも聞いてあげるつもりでいたのだけど、『迷惑をかけたくないから』って、電話を切られちゃった」
「はぁ。そうでしたか」
「水野はほんとに可愛いよね。大きな大人なのに、正直にえんえんとこどもみたいに泣けちゃう。迷惑を掛けたくないからと切られちゃったけど、可愛いなぁと思えるから、その後僕から電話をかけちゃった」
「慰めるために?」
うん、と三郎は頷いて、眉根を寄せた。閉口し、唇がへの字に曲がる。――不機嫌になった、と鶴子は察して、不安に想う。
「何か気分を損ねることをいわれてしまったのですか?」
「ううん。僕は水野の自宅へ電話を掛けたのだけどね、水野の奥さんが応じてきて、『水野は朝から友達に会いに行くとして、家にいない』といわれたのよ。……果たして、水野はどこから電話を掛けてきたのやら」
三郎が右へ、左へと繰り返し頭をゆっくり倒すのを眺めつつ、鶴子は「どこから水野は電話を掛けてきたのか」と考えだす。すぐに思いつく場所は、八定モールであった。
「八定モールからでは? お仕事場でもありますし」
「やっぱり、そうだよね」いって、三郎は息を長く吐いた。「心配だなぁ。『迷惑を掛けたくない』なんていって、電話を切ったからか」
「心配?」
三郎は黙りこみ、鶴子を見据えてくる。怒ってきているように受け取れ、鶴子は戸惑わせられ、狼狽える。
「あの。おじさん」
「水野が自殺するのでは、と考えてね」
まさか、と鶴子は声をあげた。「あの水野さんがそんなことするわけないです」
三郎は首を傾げる。
「どうだろうね。水野の奥さんも否定してきたけど」
「水野の奥さんに、『自殺するのでは』なんていったのですか?」
「当然じゃないの。水野があんな呪いだの電話してきて、えんえん泣いて、迷惑掛けたくないっていったら、自殺を想像させられるよ。この感覚は普通じゃないの? 普通だと思うね。で、だから、水野の奥さんに『もしもこの後、水野から何も電話がなかったり、明日にでも帰ってこなかったりしたら、警察に電話したほうがいい。僕だったら、今日中に警察に電話する』と勧めた」
「考え過ぎですよ」
「奥さんからもそういわれた。奥さんのいうには、『友達に慰めにもらいに出かけ、友達と一緒にお酒を沢山飲んで、酔っちゃったのでしょう。もっと誰かに慰めて貰いたく、構ってもらいたくなり、菊野さんに電話したのよ。あの人はそういう甘えん坊、自分勝手、構って貰いたがりなところあるから』とかと、ばっさりいい切られちゃいもした」
水野の妻の言い分を鶴子は頷ける。妻のいうような人間だと共感するところがあるから、自殺するだなんて想像もできないのだ。
「あの女は、あいつのことを微塵に理解してやっていないよね」
と、三郎は断言したのを幕開けに、明らかに顔に嫌悪を表して、水野の妻について彼是と文句、不満を大きな声で熱弁しだす。自分の考えと主張が正しいとしたいのだと、鶴子は察して、三郎に共感してやる。
「彼女は共感性と理解力と労りが、若干欠如しているよね」
三郎はまた断言して、閉口した。論じたいことを論じつくし、ピリオドを打ったのだろう、と鶴子は理解し、大きく頷いてみせた。彼から満足そうな笑みを貰う。
「はぁ。喋りすぎて、喉が渇いた。今日はほんとに喉が乾く日だ」
鶴子はロッキングチェアから腰を少しあげ、三郎のマグカップの中を覗く。マグ底に僅かに茶色い透明な液体が残っている。
「何か飲み物を持ってきましょうか?」
三郎は笑み、首を横に振った。
「自分でおかわりを取ってくる。それよりも、鶴子ちゃんは寝なくていいのかい?」
眠気というものを、鶴子はすっかり忘れていた。眠気なんかない。彼ともっと話していたいから。
返す言葉に困り、言葉を探り、ほんの気まぐれに窓を見やる。窓に静かに降り掛かっていた小雨が、いつの間にか雨脚を早まらせ、窓を小刻みに震わせてきていた。
続
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