一幕 怪幕 5

 書斎の重たい扉を閉め切った後、鶴子は胸が再び苦しくなってきた。

 もっと三郎と楽しくお喋りをしたかった、と鶴子は刹那に想う。

「水野に電話を掛けなおしたいから」との十分理解している理由で、書斎から出ていかされた。けれども、「あっちへ行け」と追い出されてしまった感じがしてしまう。三郎は優しく紳士な物腰で、決して乱暴に命じてきてはいないのに、思い込んでしまう。

(わたしは思い込む。思い込んでしまう。そう、これが、わたしだから……)

 本当。また水野に電話をかけなおしたいのは本当。嘘ではない、と鶴子は心の中で自分にいい聞かせる。

(嘘……)

 嘘、という言葉が、彼女の胸を意地悪く引っ掻いてきた。

(わたいはいけない子。また、わたしはいっぱい嘘をついちゃった。)

 自分の腰にかかる後ろ髪を書斎の扉から手を伸ばされ、捕まれているようで、扉の前から鶴子は立ち去れない。

 威厳さが漂う書斎の扉の前で鶴子は佇み、扉と見つめ合う。耳を凝らすが、書斎の中の音は聞こえてこない。分厚く、質の良い扉は音を漏らしてくれない。

 おかめっぐ君――春日、と鶴子は思いを馳せる。

 着ぐるみの頭部を外し、小脇に抱え、彼は素敵な笑顔を自分にくれた。

 ――美人だね。こんな美人な子をはじめて見た。

 彼がくれたお世辞が脳のどこかから鶴子は聞こえてくる。

 彼とは裕大と一緒に三定ショッピングモールへ行った時に二回と、ひとりの時に一回出会った。一度目と二度目は裕大と一緒の時で、一度目はおかめっぐ君のショーの後で、二度目はモールのメインエントランス近く。最後の三度目がひとりの時で、おもちゃ屋の近くで。どれも彼から近寄ってきて、着ぐるみの頭部を外して、気さくに喋りかけてきた。

 ――あの菊野三郎さんの娘さんですよね。

 初めてそう喋りかけられた時は、鶴子は非常に驚き、何故自分を知っているのかと警戒をした。けれども彼から「おかめっぐ君の着ぐるみスタッフとして、既に鶴子とは三郎と一緒にいる時に何度も出会っています。おかめっぐ君の声色でお喋りしているから、分からないのでしょうけど」と説明をされ、納得させられた。素敵で、優しそうな彼に警戒はすぐに解けた。

 現在鶴子は都内にある女子大の生徒だ。この初めての出会いは高校二年の夏休みだと覚えている。正確な日付は覚えていない。だけどあの出会いの日は印象の残る日だ。

 三郎の家から何月も実家へ帰ろうとせずにいた彼女に対して、痺れを切らした父親から「家に帰ってこい」と早朝から電話越しに怒鳴りちらされ、酷く気分を落ち込ませられたから。気分を明るくさせたくて、友だちがいるのなら、友だちと街へと遊びに行きたいが、そんな友だちがいないから、裕大に彼是と上手い誘い――嘘をついたから。

 思いを馳せる中で、また、嘘という言葉が、彼女の胸を意地悪く引っ掻いてきた。現実で胸を摩ってから、思いの中へと帰る。

 ――二度目はメインエントランス近くで、とだけ。あまり印象に残らない。裕大から逃げられないように、裕大の手を引きながら、春日から出演する舞台の話を少しだけ聞かされた、とだけ。

 三度目に出会ったのは、その当時に勤めていたお手伝いさんの孫のために誕生日プレゼントを買いに、ひとりでモールへ行った時だ。買いたいと思った商品が高い戸棚に置かれていて、手が届かなくて困っていると、彼が近寄ってきてくれ、代わりに商品を取ってくれた。その最後に出会った三度目は、春日が事故死した日より数月ほど前と記憶する。

 つい、現実に引き戻され、鶴子は首を捻らせた。

 あんな優しそうな。恋人、女性に困ることがなさそうな人が、本当に婦女子を暴行するような悪党なのだろう。

(ましてや、殺人を犯すだなんて)

 無意味だと既に知っているが、鶴子は扉にそっと耳を当てる。三郎の声は聞こえない。胸を苦しくさせる。胸の苦しさを静めるために、軽く深呼吸を繰り返す。

 無意味って知っているのに、と鶴子は哀しく思う。

 たとえ三郎の仕事場である書斎の隣にある三郎の寝室へ忍びこんでも、書斎にいる三郎の声は聞こえはしない。既に何度も実体験済みなのだ。三郎が何を話しているのか知りたくても、知りえっこない。彼の声が聞きたくても。

 鶴子の実家と同じだ。この三郎の家にあるどの部屋も、部屋を形成する壁は分厚く、扉を閉めてしまえば、閉められた扉の向こうで行われることは、扉の外にいる人間には知ることを許さない。たとえ部屋の中で叫び、泣き喚こうとも、外にいる者は知ることができない。

 鶴子はため息を軽く零す。いい加減に着心地の悪いブラジャーからは、解放されたくなった。ワンピースの襟から手を入れ、ブラジャーの中にしまい隠していたハンカチを引き抜いた。

 できることなら、三郎に気がつかれる前に、できるだけ早い内にこれを返しておきたいのだ。今朝早くに三郎の書斎へ忍びこみ、コート掛けに垂れ下がっていた三郎の背広から拝借してしまった、このハンカチ。

 薄紫色の糸で「A.T.」と洒落た草書体で刺繍される、このハンカチ。

 鶴子はハンカチを鼻に軽く当てる。ハンカチからは香水の香りがほのかにする。甘いけど、甘すぎもない、バニラをちょっと連想もさせる、まるで彼というものを表現させたような、彼にお似合いの香りを感じる。

 香りによって――悪戯に、痺れと疼きが下半身で生じてしまった。

 わたしって、ほんとうにいけない子だわ、と鶴子はぼやいた。



 続

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