一幕 怪幕 8
雨脚は格段に早まっていた。いささか喧しく居間の窓を叩いて、音立ててくる。
音からして、雨には氷が幾分混ざっているかもしれない。今はまだ冬であり、外は雨を僅かに氷らせなくもない気温だ。
雪にでもなるのか、と三郎は思いを馳せながら、窓に水滴が何層も重なり、伝い流れ落ちていくのを眺める。水滴と夜更けが邪魔をし、窓からは心の憩いである庭園を伺えない。
三郎は腰掛けるロッキングチェアを揺らし、目を閉じる。彼の近くでは暖炉に炊かれている。暖炉からの暖かさ、橙の灯、薪木が燃える音を聞いていれば、大抵は眠りが訪れる。このまま、眠りの訪れを待つことに決める。
半ば眠りが訪れていた時、玄関のチャイムが鳴った。
三郎は目を開かせ、柱時計を見る。その時刻は午前一時十四分の深夜である。
この時刻に玄関のチャイムを鳴らしてこれる者は、門衛くらいしか思いつかない。
三郎の家には、門衛がいる。家族以外は全員、彼の家の敷地に入る際、門衛に要件を伝え、門衛がこの家にいる者の承諾を得なければ、敷地へ入ることを許さない。
三郎は不穏な胸騒ぎがする。門衛は大抵の要件は、門衛が待機する小屋に備わる此処との直通の電話で、要件を伝えてくる。こんな時間に、門衛が家へ直接くるとしたら、門衛によっぽどの問題があったか、よっぽどの来客か。
よっぽどの来客——警察の姿が、三郎は頭によぎる。
玄関のチャイムがまた鳴らされ、立て続けにもう一回鳴らされる。
三郎は警察の予感が強まる。水野に関する悪い報せが届けにきたのか、と悪い予感しかしてこない。
三郎は急いで玄関へ向かう。その間に何度もチャイムが鳴らされる。玄関近くに差し掛かった時、寝間着姿の鶴子に廊下で遭遇した。
「あの。来客ですか?」鶴子は不安とも、怖がっているとも受け取れる表情をして、訊いてきた。
「自分の部屋へ行ってなさい」
三郎はあしらったが、鶴子は距離を置いて後ろからついてくる。その間も、チャイムは鳴らし続けられる。
三郎が玄関の目前に辿りついた時、扉の向こうから呼びかけがした。
「ねえ。三郎君いるぅ?」
水野の声であった。三郎は思わず足を止める。こんな水野の明るい声を聞いたのは久しぶりだった。また、やや呂律の回っていない口調も。あの一緒に楽しく沢山のお酒を飲んで、酔っ払った時に彼の口から溢れる声だ。
「ごめんねぇ。こんな夜遅くに。三郎君に会いたくなっちゃったから、きちゃったよぉ」
水野の妻のいっていた通りなのか、と、三郎は自分の予想が的外れであったことに若干悔しい。しかし予想が外れたことのほうが、はるかに嬉しかった。
「困った人ですね」
三郎から少し離れた背後から、鶴子が露骨に不快を表していった。三郎は彼女へ振り返り、手を払う。
「こんな夜遅くなんだ。鶴ちゃんは部屋へ戻りな」
開けてくれと催促されるように、またチャイムが鳴る。
「今開けるから。お前さんは困ったお人だなぁ」
三郎は声をあげる。破顔して、急いで扉を開けた。
開けた先、三郎の目の前には、おかめっぐ君——おかめっぐ君の着ぐるみの頭部を被った男がいた。男はずぶ濡れの青い背広を着ている。その者の手には黒い拳銃が握られ、銃口は三郎へと既に向いている。
三郎は息を飲む。言葉が何も出てこない。背後から鶴子の悲鳴があがる。
「おい。三郎。後ろにいる鶴子も動くな」
おかめっぐ君の頭部からは、水野の声が出た。
「み、水野?」
と、三郎は何とか冷静になり尋ねる。男の体つき、手の形といった身体の特徴を見れば、相手が水野だと尋ねなくても分かった。しかし水野は質問に答えずに続けた。
「八定ショッピングモールをつぶすんだってな。俺から仕事を奪うのだな」
三郎は瞬き、戸惑う。水野には一度たりとも八定ショッピングモールをつぶす――閉鎖しよう、と思わせる発言をしたことはないと思う。彼に気を遣ってばかりの言葉しか与えていない。しかも、閉鎖させるという考えが自分に湧きあがったのは、ついさっき居間で鶴子と喋った時からだ。
「許せん。この侮辱。俺に退職金として、五億用意しろ。俺への慰謝料だ。俺を散々馬鹿にし、こき使いやがって」
「馬鹿にして? こき使って? 何をいっているんだい」
三郎は耳を疑いつつ、優しい笑みを作ってみせる。「ずばり、水野は気がおかしくなっている」と、判断した。また手にしている拳銃は偽物に思えた。水野は拳銃を入手できるような人物でない上、これはもう気がおかしくなっているから、玩具の拳銃を拳銃だと思い込んでいるとも考えられた。
「水野。落ち着こうよ。外は寒いでしょう。取り敢えず家の中に入って、喋ろうよ。いくらだって話を聞くよ」
黙れっ、と水野は叫んだ。
「退職金だけじゃなく、次の仕事場も用意しろ。そうだ、お前の兄が所有する造船所の役員にさせろっ」
「いいよ。俺は退職金をきちんと用意する。次の仕事場も何とかする」いって、三郎は苦笑する。「無茶難題だね。俺と兄さんが仲良くないって知っているのに。きっと難しいよ。水野からの頼みだから、俺はもちろん兄さんに頼んではみるけど」
「何とかしろっ」
「分かった」
「で、それから、鶴子を俺のプリマドンナにしろ」
突拍子もない台詞に、三郎は閉口させられる。台詞の意味がよく理解できない。
「プリマドンナって、どういう意味?」
「俺の奥さんにさせろってこと」
気がおかしくなっていると理解するけれども、三郎にとって、その発言はあまりにふざけていた。不愉快にさせ、許しがたいものであった。
「いい加減にしろっ。こっちは、どれだけお前に気を遣ってやっていると知っているのか?」
三郎は激昂し、水野が握る拳銃を奪おうと手を伸ばす。手が辿りつく前に、銃声が聞こえ、肩に激痛が走る。肩に黒い小さな穴が開き、そこから夥しい生温かい黒い液体が溢れ、シャツを汚す。背後から甲高い鶴子の悲鳴があがる。
「俺から八定ショッピングモールを奪うな」
水野は高らかな怒声を発した。
二月×日午前二時過ぎ頃、菊野三郎邸宅から何発もの銃声と思われる音が聞こえた——と、菊野三郎邸宅近隣に住まう家々から警察へ通報がされた。
一幕 終
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