一幕 怪幕 2
***
「もう耐えられない。ここは呪われているんだ」
書斎の窓から目に沁みるほどの夕の陽が射してきて、菊野三郎が腕で額を翳していた時であった。受話器の向こうから興奮気味に水野から喚かれた。
三郎は思わず息を呑み、改めて確信させられる。——これではまずい、と。
今日から凡そ半年前におかめっぐ君の舞台で事故が発生してから、確実に、日に日に、この受話器の向こうにいる友人は精神を病魔により蝕まれている、と思考が巡りだす。
水野とは、彼此十年以上の付き合い。非常に論理的な思考の持ち主、且つ、現実主義者であると定める水野から、ついにはそんなとち狂った言葉を貰ったのは、三郎にはあまりに衝撃が強く、閉口させられる。己のことを「冷静沈着過ぎて、もう困っちゃうほど」と考えていたのに、動揺してくることに、もどかしくて堪らない。
(……どう打って出れば)
反論か、慰めか、謝罪か、と、次に打ってでるための言の動きが、頭の中で廻りだした時、前ぶれもなく通話が切れてしまった。まるで見限ったかのように、三郎は捉えられた。
三郎は受話器を手にしたまま、書斎をうろつきだす。「今すぐかけ直すべきか。否か」と悩みに悩み、数分後に後者へと判定を下す。水野に落ち着かせる時間を与えたほうがいい、と。
この前だって、と三郎は思いおこす。
水野は電話越しで今回の「呪い」とは違うが、「死んだ春日をモールで見かける」と取り乱したように弁じだした。それに対して、三郎は「ほんと非科学的。ほんと非現実的な話よ」として否定したら、「お前とは話にならない」と水野から激高され、挙げ句の果てには絶交を断言され、電話を切られてしまった。けれどその後すぐにして、水野から電話を掛け直されてきて、平謝りされた。――前回と似た感じの流れで、今回もそうかもしれない。
三郎は受話器を静かに電話へ戻し、欅の作業机の元へと帰ることにする。回転椅子に腰掛け、広げられたままの牛革の手帳に万年筆を運ぶ。
正社員 –7 非正規 –21 プラスナシ
二月×日日曜日である、今日の空白に綴り終えた走り書きを少し眺めてから、傍にある窓を見やる。すぐ向こうで広がる庭園に植えられる梅の木が、白い花を見事に咲き散らかしている。その小粒の花々は夕で橙に照らされ、風に弄ばれている。
あの梅の木は、この邸宅が建設中に植えられた。三郎は、現在四十二歳。彼がこの邸宅を建設させたのは二十五の時で、住みだしたのは二十九の時のその間に、友人のひとりから三郎に対し「菊野財閥の三男ぼう」として、又「知名な敏腕実業家のひとり」として、これからの繁栄を祈られての贈呈品として植えられた。
梅の木によって少し励まされた気になる。客観的に見れば、繁栄の贈り物とは随分と皮肉である現状に、自分は置かれているのだとは理解しているものの。
(……何とかなるさ。物事は僕が望む通りに運ばれる。僕はポジティブ、ベンチャー、クリエイチャーなのだ。)
三郎は己を鼓舞してから、仕事をする気になり、作業机上の前方脇を見る。そこに書物で形成された高さ三十センチ程の二つのビルが隣接して横並ぶ。一方は雑誌のみで、もう一方は新聞のみで正確に形成されたビル。二種のビルの一番上にあるもの、どちらも共通して『おかめっぐ君事件』と大文字の見出しがある。
このお気に入りの机を陣取る二つのビルに、三郎は舌を打った。
そもそも三郎は机に物を置かないことを好んでいた。何も置かれていない机を愛していて、美しいと思う。「必然的に努めてこなしていかないといけない仕事だから」という理由をいい事にして、我が物顔をして陣取っているビルは自分の美学を侮辱するそのもの。目障り極まりなく、解体させたくて堪らない。
(……兎に角、まずはこれを何とかしなければ。)
不快感を体から追い出すために、三郎は息を長く吐いた。それほど効果はなく、不快感が痼りとなって胸に残り、痼りの気持ち悪さから胸を掻く。
胸を掻いている最中に、何故だか唐突に、自分でも分からない見えない何かに引かれるようにして瞳が動かされられる。
瞳がとめられた先——卓前の壁に画鋲で留められる画用紙がある。画用紙には幼い子供によりクレヨンで描かれたと連想させる、鶏冠を生やした虹色の王蟲の衣装を纏った蛙のような生物が乱雑に描かれていた。
「ごめんね。君は決して悪くないのだよ」
三郎は絵に対して呟くようにして詫び、慰める。
「悪かったのは、春日か、俺だ。君は悪くないのだよ。——ねぇ、おかめっぐ君」
絵に描かれた生物は満面な笑みのままで、三郎の期待に答えて、謝罪に応じることも、嘆いてくることも、責めてもくれなかった。
続
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