一幕 怪幕 1

 1987年7月×日。


 開幕のブザーが白樺シアターに鳴り響いたのは、予定開始時刻午後三時から十分ほど遅れた頃であった。

 鳴り終えてから合間を空けることなく、シアターの全体照明は一旦落とされ、シアターは暗闇に包まれる。暗闇はほんのいっときばかし。舞台のみへとスポットライトが煌々と照らされ、舞台の赤い垂れ幕に反射した光が観客席へ拡散され、暗闇は掻き消される。

 シアターにコミカルな明るい曲が流れだし、拍手喝采。幼いこどもたちの歓声が、忽ちにひろがった。

 水野は両手を胸前まで上げ、一緒に拍手すべきかと少し迷ったが、両手を肘掛けにきちんと置き戻した。シアターの明るい雰囲気に気が滅入りそうになり、肩身が狭い心地でいたのを、さらに拍車をかけて肩身の狭い心地にさせられる。

 水野は息を吐く。また彼の腰と尻に、僅かに痺れが生じてきた。最後尾座席にいるので後ろを気にせず、座席から一度立ち上がり、座り直す。今年でこの水野登みずののぼるは五十六才を迎え、体にがたができだしている、と自覚している。シアターの座席は厚さのあるクッションに包まれていて、座り心地は決して悪くないのだ。

 年のせいではなく、長いこと座っていたせいからの痺れであろう、と水野は反芻する。年をとっただなんて、認めるのは、実に悔しいから。嫌でもある。

 乾いた唇を固く閉め、腕を組み、彼は薄暗い視界の中で右隣を見やる。——そこだけ、ショーから切り離された感じにさせられる空席。

 世間では、こどもたちが夏休みに入っている今日こんにち、日曜日。白樺シアターがある八定はちさだショッピングモールでは朝から大勢の客が集まっている。今から始まるショーは、入場料なしだから等と理由をつけなくても、周囲を見渡せば、総計百十一席のシアターはこの空席を除くと満員だ、と水野には考えさせられる。

 はたから見たら、自分はどう思われるのだろう。思われているのだろう、と水野は気になり、また悶々と考えだす。先ほどと同じで、「惨めで、滑稽だろう」としか考えが浮かばない。

「誠に滑稽だ」

 と、水野は舞台を望観しつつ、思わず小声で漏らす。漏らしたことに気がつき、左隣を咄嗟に見る。左隣にいる幼稚園生くらいな年頃の男児は、こちらのほうを見ておらず、高揚した顔を舞台へ向け、足をばたつかせている。水野の呟きの破片たりも、耳に届きはしなかった様子だ。

 こんな——、と水野は皮肉に思い、唇を噛む。

 こどもが観る舞台をこれから鑑賞するのか。自分には連れ添う妻がおり、疾うの昔に成人した息子もいる。また、八定ショッピングモール代表取締役社長。まさかのまさか、今更、同伴者なしのひとり。今から始まる、こんな低年齢向けの観劇をすることになるなど、想像してもいなかった。

(恥ずかしくてたまらない。こんなおやじひとりで……)

 水野が長い息を吐き切ってから少しした後、舞台の垂れ幕があがった。拍手喝采がまたひろがる。

 舞台の中央には、可愛らしい妖精の衣装をまとったうら若い女たちが、満面な笑みを浮かべて集っている。集いの中からひとりが観客席のほうへと踊るようにして数歩でてきて、片腕を軽やかに振り上げてから、恭しく頭をさげ、口を開いた。

「みんなぁ! こんにちはぁ!」

 彼女の一声にこどもたちが応じると、彼女は高らかな声で続けた。

「八定ショッピングモールへようこそ。不思議な世界と繋がる白樺シアターへようこそ。今からここでは、このシアターに住まう妖精のわたしたちと、わたしたちのお友達であるおかめっぐ君による、歌と踊りであふれたマジカルショーが始まります。

 おかめっぐ君は、みんなのお友達。ちょっと恥ずかしがり屋だ、け、ど、とっても心の優しい、虹色の翼を生やしたカエルの妖精さん。人間の世界が大好きだから、不思議な世界からよく抜け出して、人間さんがいっぱい集まる八定ショッピングモールにひょっこり現れて、お友達になってくれるこどもを探している。

 おかめっぐ君とお友達になるには、『お友達になろうよ』とおかめっぐ君に声をかけてからの、僕らはお友達だよとのお約束で。げんまん! ゆびきりげんまんをしたら、誰でもみんなお友達。

 今日はメインエントランス近くで、おかめっぐ君はこどもたちに風船をプレゼントをしていたはずなのだけど、風船をもらえた子はいるかなぁ?」

 我ぞ、我ぞと、こどもたちが次々に手をあげ、「はい、はい」と興奮した声をあげだす。左隣の男児も声をはりあげ、その甲高い声が耳から脳へまで響き、強い痛みとなって脳の前頭葉へ伝わり、水野はつい額を手で覆った。

 そういえば、と水野はふと思う。今日はおかめっぐ君——春日君とモールで出会っただろうか。いつ彼と出会ったのだろう。

 白樺シアターで行われる劇のおかめっぐ君役を請け負う俳優、且つ、モール内でおかめっぐ君の着ぐるみスタッフとして、風船を配るアルバイターである春日正成。確か、先週にモール内で遭遇して、立ち話をした。話の内容は春日が出演する舞台についてだったと覚えている。

 現在、八定モールでは、約二千人以上のアルバイターが雇われている。 社長である水野にとって、その数えきれないひとの中で、この春日は記憶に刻まれる若者のひとりだ。

 まずは、端正な顔立ちと耳障りの良い声により、記憶に刻まれる。次に、本業として舞台俳優をしているという物珍しさ。決して有名な俳優ではないが、たまに雑誌で小さな広告が載る舞台の脇役をこなしてはいる。いつぞかに、「舞台だけでの仕事では食っていけないのですよ」なんて、照れ臭そうに御尤もな説明してきた。

 今からここでおかめっぐ君として、舞台からひょっこりと現れるのは、あの春日君なのだろう、と水野は考えた。彼の他におかめっぐ君役の俳優がいるとは、誰からも聞いたことがない。

「さぁあ、みんなでおかめっぐ君を呼んでみよう! おかめっぐ君!」

 舞台の妖精たちが一斉に観客席へと声をあげた。

「おかめっぐ君!」

 こどもたちだけでなく、大人も大きく応じる。そして、その後、会場がしんと静まり返える。

(……ありふれた。お決まりのもったいぶらせか。何回これを繰り返してから、登場するのやら。)

 水野は背もたれによたれかかる。自然と背広の内ポケットに左手が入り、そこに忍ばせてある煙草の紙箱の蓋を弄りだす。

 呼びかけの音頭が幾度か続いた時だった。舞台にいる妖精たちの顔色、仕草が明らかに戸惑いを露わにしだした。観客席から妙なひそめき、どよめきが起こりだす。

 トラブルか。何かあったのか、と水野は首を傾げる。心配にさせられ、背もたれから背を離そうとした時、舞台のどこからか身を戦慄させる悲鳴が起こった。悲鳴は男のものであると聞き取れた。

「どうか。誰か助けてくれっ」

 と、男の絶望的に高らかな声を、水野はしかと耳にする。観客席からは見えない舞台のどこかで、男が慌てふためき助けを求めているのを彷彿させられる。立て続けに、舞台のどこかから積み上げられていた大きな物ものが崩れ倒れていったような、悲惨な出来事が発生したと想像させる物騒な物音がした。

 舞台にいる何人かの妖精たちは舞台の天井のほうを見やり、悲鳴をあげる。それから一斉にショーシアターは恐叫で満たされた。

 おかめっぐ君が真っ二つになった。悲惨な事故死をした——と水野が舞台スタッフから耳にしたのは、ショーが中止となってから凡そ十分後たらずのことであった。


***


 続

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