序幕 怪文書
八月十二日午前一時半頃、
先の丸い鉛筆を星里はデスクに置き、官帽で顔を扇いだ。駐在所の開きっぱなしの扉から夜風が入り込んでくる。外は雨の匂いなく更け切り、蒸しの暑い風を吹かす。今日の夜風は、昨夜よりも一段と熱が籠っている気がした。
手の甲で額を擦り、汗がべっとりつき、制服の胸で拭く。デスクの上では古ぼけた扇風機が最高速度で、音を立て身震いさせながら回る。扉の間近に位置するここでは、単に生温い風で髪をなびかせてくるだけである。
縦組みノートの二本の枠線に挟まれた文に目を通していき、彼はひとりでに頷く。——なかなかの出来前によって。
ついにやけかけた時、背中に先輩の荒々しい呼び声が浴びせられた。
「お前、何をしてんだっ」
星里は慌てることなく、振り返る。
想像していた通り、別に先輩は怒った面構えではなかった。他人からしたら随分と荒い声色で、喧嘩腰な口調だと受け取れられるかもしれないが、これがこの先輩の自然体というものなのだと、ほんのついこの間から理解しだしている。
星里が説明を始める前に、先輩からデスクに広げたままのノートを奪われた。先輩は流し見る感じにノートのページをぱらぱらと早く捲り、ノートを閉じ、学習帳日記と旨が印刷された表紙をしげしげ眺めてから、眉根を寄せた。
「こりゃあ、落し物かい? 小学校で使う日記帳じゃないか」
星里は先輩に笑む。
「いいえ。俺のですよ」
先輩は顔を顰めさせる。
「これがお前さんのだって? 何だい、この中身は。これはお前さんが書いたの?」
「ええ」
「この内容、気味が悪い。まるで怪文書じゃないかい。お前は子供用のノートに怪文書を書くのが趣味なのか」
怪文書だなんて失礼な、と星里はいい返すのを堪え、ただ単に苦笑する。
「怪文書ではないです。このノートは俺の〈プライベート事件日記〉というものなのです」
「何だいそりゃあ?」
「俺からして、今日起こった『何か事件だなぁ』と思うこと、体験したことを記録しているのです。まぁ日記であるのに変わりないですよ」
「へぇ。いつからこの日記を書いているのよ?」
「小学生の二年の頃から書き続けています。俺が小学二年の時に、その時の担任の先生から日記を習慣にするといいと教わりましてね」
相手は本職だ。何だか悪いことをして事情聴取を受けているようで、星里は気まずさを感じだす。よく考えれば、勤務中でありながら、プライベートの日記を書いていたわけだから。ちょっとした息抜きで、書いていたのでもある。
「いやぁ。深夜での勤務のちょっとした息抜きとしてでも、日記を書いていたのでありましてね。それで、その、話を戻りますと、日記を習慣にすると、将来のためになる、文が上達するとか、忘れてしまった出来事を思い出したい時の便利な覚え書き代わりにもなるとか、その先生は仰ってくださいまして」
と、星里は続け、勝手に言い訳がましいことをした。
「小学二年の頃から今に至るんまでずっと書いてんの?」
「ええ。書き出してから今に至るまで毎日欠かすことなく書いています」
「まさに習慣になっているのね。で、何で、カタカナと漢字で書くの?」
「プライベート事件日記——事件と題するに、そのほうが事件な感じがするからです」
「ほう。確かに怪文書集で事件な感じがすりゃ。で、小学生の頃から、そんな日記をカタカナと漢字でご丁寧に書いているわけ?」
「はい。その通りでございます」
「書き出してから、ずっとこんな子供用のノートを使い続けているの?」
「もちろん。始めた当初の、こどもだった時の純粋な気持ちを変化させたくなく。その気持ちはいつまでも変化させてはいけないものでしょうに」
先輩は失笑した。
「お前さんはほんとに変わったやつだなぁ」
職務怠慢だとして頭ごなしに怒鳴れるのを覚悟していたので、星里は気が抜け、安堵からのひと息がでた。
「そうですかね?」
「うん。変わっているよ」
何処がどう面白いのか星里には分からないが、先輩からけらけらと笑われる。けれど先輩が自分のことを何故変わっていると思われるのかは分かる。
星里は都内で生まれ育ち、都内にある警察官学校を終え、都内にある駐在に派遣された。けれども都内で職務についてから数年で、唐突に何となく都会にいるのが嫌になって、都会から遠く離れた場所への異動を希望した。それゆえに、都会から遠く——それ程でも遠くないともいえる、この碑田利町へとほんのひと月前に流れついた。
「こんな目立った特徴のない、名所もない、自然に溢れた田舎でもない、平々凡々な街へ来ちゃうのだから」
先輩は破顔させて豪語した。
この先輩は碑田利町に生まれ育つ、と星里は知る。生まれ育った地の由縁で、ここの駐在所に長いこと務める。若い頃は車で都内へ遊びに行き、今では仕事じゃない日は、車で家族と一緒に都内へ出かける。こんな先輩にとっては、都内から離れたがるのは変わっているようだった。この星里に対して、赴任してから続く、もはや口癖にもなりかかっている発言の通りに。
「都会が嫌ってんなら、片田舎へ行くのを想像すっけど、こんな中途半端な街へ来るのを希望すんなんて」
正直なところ、と星里は思う。
別にここへ来ることを希望したわけではない。かといって、別に片田舎へ憧れはなかった。ただ離れたかっただけ。それだけ。ここへ流れ着いて、都会から離れられたから、満足ではある。
先輩はページを捲り、眺める。
「今日の日付があるねぇ。何々、落雷があったねぇ」
驚かれ、関心を向けられるのを想像していたが、先輩は質問を寄越すことなく、無感動な欠伸を零しただけで他のページを捲る。
「落雷に俺はびっくりしたのですよ」
と、星里は気を引かせてみる。この先輩にじゃなくても、誰かにその落雷のことを日記に留めるだけに終わらせず、教えたくて堪らなかったから。
「まぁ。落雷はびっくりするわなぁ」
「びっくりというか。妙に思えて」
現在午前三時近く。落雷が生じたのは、約一時間半前である午前一時半だ。星里がこの駐在所の事務デスクに腰をおろし、何の気なしに窓から外を眺めていたら、隣町である間仲町の方で雷鳴がし、間仲町にある小山へ青白い一筋の落雷が生じた。
その時天気が荒れていたわけではない。雨も降っていない。先ほどパソコンから天候を調べたが、この近辺で落雷の恐れありといった情報を入手することができなかった。——それ故に、どうも妙に思えたのだ、と説明をした。
「なるほどね。まぁ、あの小山、はちさだやまにはよく雷が落ちるのよ」
あっけらかんとした感じに、先輩は教えてきて、日記を返してきた。
「へぇ。あの小山は、はちさだやまというのですか?」
「そう」
「よく雷が落ちるということは、天気が悪くないときでも落ちるのですか? その、よく頻繁に」
先輩は太い腕を組み、唸る。
「よくっていったけれど、どうなのかねぇ。天候が悪い時は決まってあの山に雷が落ちる感じだからさ。山だし、雷に狙われているのだよ」
「なるほど。山だから、ですか」
「うん。山はころころ天候が変わるじゃないの。ここでは天候悪くなくてもよ、あちらさんの山では天候悪いってことがあって、雷が落ちるのじゃないのかね」
いつ頃か、誰かからなのかは、星里は全く覚えていないが、山に雷が落ちやすいと聞いたことはある。そして雷が落ちやすいのは、雷の標的になりやすい条件を備えた、山が高いから、木が多いからとか。あの小山は、遠目からして全面を木に覆い尽くされている。間仲町で高さのあるもの故に、雷の格好の餌食に思えなくはない。
だとすれば、合点がいく――と、星里は納得仕掛けたのに、歯止めがかかる。
記憶を辿れば、雷は小山の高い部分、天辺に落ちたのではない。山のなかばか、なかばよりちょっと下くらいであった。
あそこへ天の気まぐれで落ちたのだろうか、と星里は疑ぐりだす。——その落雷があった所に、雷に狙われるものがあったのでは。
星里の後頭部に、軽い衝撃が襲った。その衝撃で疑ぐりが頭から飛び抜け、先輩に平手打ちされたと理解させられた。
「お前さんさ、そろそろ商店街へ見回りに行ってくれないか?」
あ、と星里は思い出す。
先々週から、この駐在所より自転車で十五分ほど離れた場所にあるあお
(まさか、こんな平凡な町に、そんな奇怪な輩がいるなんて……)
ちょっと、そんな輩を想像して、星里は顰める。
都心で働いていた頃は、「多種多様な人間が大勢集まる都会だから、変質者は頻出してあたり前」という考えで、変質者関連の通報に驚くことはなかった。だけど、碑田利町という、都会過ぎず、田舎過ぎもしない中間的な街に、そのような奇怪な変質者が出没するとの通報には、ほんと驚かされている。
星里は先輩に頭を下げた。忘れかけていたことの詫びを述べ直ぐ様、駐在所から飛び出した。年期の入った錆びついた自転車に跨り、ペダルを踏む。
駐在所の周囲にある殆どの建物は、灯を落としていた。駐在所の目前には、
ひとの声がしてこない町、けれども蟲の静かに鳴く声はしてくる。
あお菜商店街は、駐在所から出て、山城通りを郵便局がある方向へ自転車だと十分程進み、それから右へ曲がる小道に入った先にある。商店街を目指し、ペダルを踏んでいく。ペダルを踏めば踏むほど、自転車に備わるオートライトが強まり輝き、前方をよく照らす。
こんな夜更けだからか、車道には車が全く走ってこない。この通りに組み込まれる車道は昼間でも都心部ほどの車の横行はない。小型のトラックが前方からゆっくりと走ってきて、星里とすれ違う。トラックの荷台は空っぽであった。
そろそろ右へと曲がらなくてはならない小道に差し掛かった時、大型バスが前方から幾分早い速度で走ってくるのが見えた。
オートライトによりバスが照らされ、風付きが明らかになり、星里は呆気にとられる。思わずブレーキを握りしめた。
見るからに新台と思わせる、光沢ある車体。車体は全体的には黄緑色で、可愛らしい絵柄の色取り取りの花があちこちに散らばっている。
この街には愛相応しくない、都心部を走行するテレビ関係の宣伝バスとも、遊園地内の遊覧バス、といった印象を星里に与えるバス。そんなバスがこの街の真夜中に走行するとは、誠に奇妙であった。
星里はバスと目前になる。誰が運転しているのかと気になり、運転席を注目する。
バスの速度と、闇を照らすのはオートライトだけという視界の悪さから、星里は運転席にいる者を見ることができなかった。どうしてだか分からないが、運転席に誰もいないようにも見えた。
いらっしゃいませえ!
八定ショッピングモール送迎バス
擦れ違い様に、であった。車体の横に、古風な字体ででかでかとそう書かれているのが、はっきり見え、読み取れた。
(八定……はちさだ?)
バスをもう一度よく見たくて、星里は後ろを振り返ったが、その時にはバスは既に遠くの彼方だった。あっという間にバスは小さくなっていき、見えなくなり、ぼんやりとした闇だけが残される。
条件反射のように、右手首に嵌まる腕時計で時刻を確認する。現在時刻は午前三時五十六分、と彼の時計は示す。
それから星里は北東を見やる。その先に間仲町が——落雷が生じたはちさだやまと呼ばれる小山がある。
もしかしてあの近辺にショッピングモールがあるのか。——何故深夜に送迎バスが走行する必要があるのか、と考え、首を捻らせつつ、再びペダルを踏み出した。
八月十二日午前三時五十六分頃、山城通リニテ、八定ショッピングモール送迎バス走行。運転手確認デキズ。
モシカシタラ運転手ハイナカッタ。幽霊ダッタノカモシレヌ。
アオ葉商店街付近ヨリ目撃スル。
あお葉商店街から駐在所へ帰ってきた星里は、プライベート事件日記に記録される落雷の出来事の続きに新たな文を付け加えた。
そろそろ夜が明けそうではあるが、熱の籠った夜風が碑田利町でまだ吹き続けていた。
序幕 終
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