第9話 別れの決意
最後に二人で訪れたのは芹ヶ谷公園だった。桜はすでに散っていたが、侘しさは感じない。ゴールデンウィーク間近なのもあってか、心地よい風が吹いている。
智紗都は暑くない木陰に向かい、ベンチに座る。ティーダもなにかを感じ取ったのか、並ぶように足元で『お座り』をしていた。いつものように欠けた枯葉のような舌を出して笑っている。暑さに滅入ってはいないようだ。
ふと、茜色の空を見上げて思い出す。両親にこれまでの経緯とティーダの正体を語った時のことを。
「そうか。やっぱり」
「不思議ね。突飛なことなのにスッと納得できちゃうなんて」
徹と佐恵子の反応は味気ないものだった。大袈裟な驚きはなく、しみじみと事実を噛み締めていた。
彼らはそれ以上なにも言わなかった。決断を全て智紗都に委ねるように。二人は娘を試しているのだろう。お別れを目の前にして今度はなにを決意するのかと。
──だからここにきたんだ。未来の私とティーダのお気に入りの場所に。
「ティーダ」
「ワン!」
「ごめん、呼んでみただけ」
首輪を失った彼からはもう人の言葉は返ってこない。反応してくれても、その鳴き声にどれだけの意味がこめられていたかはわからない。なんの変哲もないただの犬に戻ってしまったのだ。
いざ話そうとすると、智紗都は言葉が思い浮かばなかった。なにから話せばいいのか。思い出せば思い出すほど伝えたいことがまとまらない。
「まさかあの出会いに意味があるなんて思わなかったよ。いきなり『ご主人』ってさ。私、わけわかんなくなっちゃって」
口からついて出たのは出会った日のことだ。まとまらないなら最初から話してしまえばいいと思った。
思えばあの時からヒントはいっぱいあったのだ。家の場所を聞いて『ここ!』と答えたのは彼女の家の犬だからだ。『ご主人! 散歩』と言ったのも未来の智紗都が散歩に連れていく途中でタイムトラベルしてしまったからなのだろう。
「冷たい態度取っちゃってごめんね。本当は犬が好きなのに……怖くて一歩踏み出せなかった。その上あなたにアルトの姿を重ねて……ちゃんと向き合おうとしなかった」
今思い出しても最低だったと痛感する。突然の不可思議なできごとで理解できなかったという言いわけはできない。「未来からきた犬じゃなくても私はきっと目を逸らしていたはずだ」と思うからだ。
「こんな別れがくるならもっと早く素直になればよかった」
恐怖で一歩踏み出せなかったのは……あの頃と変わらず犬が好きだったから。好きだから、大事だからこそ慎重になってしまった。そのことに気づくのが遅過ぎた。
時間は巻き戻らない。神の気まぐれでも起きない限り、時の流れは前へ進むことしかしないのだ。
智紗都は一人頷いた。自分の時間を歩もうと。現在という点から伸びる線──未来に彼がいることを信じて。
「ティーダ、よく聞いて」
彼は首を傾げていたが、そのまま言葉を継いだ。
「あなたの本当のご主人は私じゃないんだ。同じ智紗都だけど……私じゃない。私はまだ恐怖を乗り越えるきっかけを掴んだだけだから」
未来の自分にも同じようなできごとが起きていたのかはわからない。起きていたとしても、恐怖を克服して成長しているなら違う自分だ。
彼の隣にしゃがみこみ、顔をじっと見つめる。予想通り、なにも返ってこない。
「やっぱこんなこと言ってもわからないか……とにかく! あなたはもとの場所に帰るの! わかった?」
自分の口から別れを告げた瞬間、目の奥から熱いものがこみ上げてきそうになった。必死に我慢しようとすればするほど、溢れそうになる。悲しいだけではないはずなのに。
不意に智紗都の顔をティーダが舐める。まるで涙を拭うように、慰めるように優しく。
「大丈夫だよ、ティーダ。私の胸にあるのは別れる悲しみだけじゃないから。あなたと過ごした日々が残ってる。だからちゃんと恐れず一歩踏み出すよ。未来であなたと会うために」
別れと一緒に消えるものばかりではない。楽しみや幸せも彼からいっぱいもらったのだ。そのおかげで智紗都は再び前を向くことができた。過ごした時間は決して無駄なんかではなかった。
「最後に一つ聞いていい? 私は『ご主人』として相応しい?」
『ご主人』。ずっと喉につっかえたままだった言葉。しかし……そう呼ばせたのはほかでもない未来の智紗都自身だった。
ティーダの首輪を操作した時に彼女が知ったのは未来からきたという事実だけではなかった。あの時、一緒に登録されている単語を見てしまったのだ。
登録されていた言葉は自身を表す『ティーダ』、両親を示す『パパ』と『ママ』の三つだけ。『ご主人』は初期設定ワードだった。智紗都という単語はあえて追加しなかったのだ。自分を戒めるために。
なぜ『ご主人』と呼ばれていたか。理解した今だからこそ問いたい。「今度こそ飼い犬に相応しいご主人になる」という自分の目的は果たせたのかどうかを。
「ワン!」
返ってきたのは至って普通の鳴き声だった。やはり正確な意味は読み取れない。『相応しいよ!』なのか『全然ダメ』なのか。
ただ、感情はわかる。彼の顔は空を茜色に染める陽光のように輝いていた。それだけわかれば充分だ。
「そっか。そうなんだ。未来の私はちゃんと『ご主人』やれてるんだね。うん、今なら私も胸を張ってそう言える。私が……未来のあなたの『ご主人』」
ティーダは『ご主人』を愛している。その事実が自分のことのように嬉しかった。自分にもその可能性があるのだと示唆されていると思えたから。
──だったらなおさらもとの時代に帰さないとだよね。
智紗都はティーダの温もりを噛み締めるように抱き締めた。どんなに離れていてもこの温かさだけは忘れない。再会するその日まで胸に残し続ける。
「ティーダ、大好きだよ。また犬を好きにさせてくれてありがとう……次は未来で会おうね」
そうしてティーダは玉川の手によって未来へと帰された。
飼い犬との二度目の別れ。けれど最後ではなく、これはきっかけに過ぎない。まだ始まってすらいないのだ。
思い出を抱き締め、智紗都は一歩前に踏み出す。もう一度巡り合うために、今度は最後まで彼と向き合うために。
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