第8話 町田市漂流物対策課

 電話の主は『町田市漂流物対策課』という聞き覚えのない部署の役人であった。玉川という名前らしい。思いもよらない人間からの連絡で智紗都は呆然となった。

 彼の要件はこうだった。


「実はその迷子の犬なんだが、我々が探しているものに関わりがある可能性が高いんだ。その子を役所まで連れてきて欲しいのだが、いかがかな?」

「いや、そんなふうに言われても。そういう仕事って保健所とか動物愛護センターとかの仕事じゃないんですか?」


 最初は役所の名をかたったいたずら電話かと思い、智紗都は真面目に取り合わなかった。

 玉川が役人に相応しくない砕けた言葉遣いなのも気になった。柔和な口調ではあるが、どこか上から目線だ。まるでエージェントや刑事が犯人を追い詰めるための言葉に聞こえる。


「普通はそうだろうけど、今回は非常事態なんだ」

「非常事態……?」

「放っておくとマズいことになる……とだけ言っておこうか」

「そんな! ティーダはただの犬ですよ!」


 役人の手前勝手な言動に反駁はんばくする。漠然と「マズいことになる」と言われても、首を縦には振れない。なおも反論を続ける。


「だいたい漂流物対策課ってなんですか!? そんな怪しいところに引き渡すほど私はバカじゃ──」


 だが次の瞬間……止めどなく溢れ出していた言葉が潰えた。


「じゃあその首輪は? 本当にただの首輪かい?」


 玉川はティーダの首輪がこの世界のものではないと知っていたのだ。


 ──どうして知ってるの? 何者なの? 私は……私は。


 動転のあまり、智紗都は空気を求める魚のように口を開閉させるしかできなかった。追い討ちをかけ、彼は言う。


「沈黙は雄弁だね。君もその首輪の異質性には気づいているわけだ。まあどう考えてもおかしいよね、それ。首輪単体で機能する翻訳機なんて聞いたことがない」

「それは……」

「私たちはその『漂流物』を回収したい。この世界に対して余計な影響を与えたくないからね。協力していただけない場合、強行手段としてこちらから出向かせてもらうことになる」


 智紗都は落ち着くために大きく息を吸いこんだ。幸い彼の狙いは首輪のようだ。ティーダではない。であるならば、時間さえあればいくらでも手段を講じることができるはずだ。

 息を吐き出すと同時に強い口調で言葉を紡ぐ。


「わかりました。後日、私の方から首輪を持ってお伺いします」


 そうして二日後。智紗都は意を決して町田市役所へと赴いた。

 真新しい庁舎の中で天井を見上げる。二階まで吹き抜けになっており、堅苦しさや煩雑さを感じさせないすっきりとした空間だった。

 フロア案内を確認する。やはり『漂流物対策課』などという胡散臭い名前の部署はどこにも見当たらない。そんな最中に、一人の男に声をかけられた。


「北野智紗都さんだね?」

「そうですが……あ! あなた電話の!」

「どうも。わたくし、こういう者です」


 渡された名刺には『漂流物対策課課長 玉川学』と書かれていた。間違いなく電話の主だ。

 実際に会ってみるとますます胡散臭い男だと智紗都は思った。男は目が細くつり上がっており、さながら狐が人間に化けたかのような面持ちをしていた。声音には重みがなく、詐欺師のような饒舌じょうぜつさを感じる。


「立ち話というのもあれだね。対策課の部屋へと案内しよう」


 有無を言わさず、玉川は先を歩いていく。ついていくしかない。

 漂流物対策課の部屋は市役所の地下にあった。異質な部署の存在を表に出さないためだろう。フロア案内に表記されていないのも納得できる。

 窓のない殺風景な応接間に通され、腰掛ける。デスクはいくつか見えるが、職員らしき人物は玉川以外に見当たらない。


「持ってきたのは例の首輪だね?」


 智紗都の正面に座った玉川が早速尋ねてきた。もてなすつもりはなく、用件をさっさと済ませたいのだろう。


「あなたが探していたものはこれですか?」

「ええ、おそらく」


 手渡すと、すぐに首輪をまじまじと見つめ始めた。目で確認をしながら、彼は言う。


「尋ねないんだね? 漂流物とはなにか」

「わかってるから尋ねないんです。それは未来の発明品──つまり

「それを理解していたから素直に提供してくれたわけか」


 犬のことを遠ざけていたから『首輪型翻訳機』について知らなかっただけだろうと最初は思っていた。しかしティーダの素性の謎や翻訳の精度を鑑みると、この首輪は間違いなく異質なものだ。この世界に存在するものではない。


「その首輪にはと記載されてました……未来の日付と一緒に」

「ほう。それは興味深い。町田が神奈川に吸収される世界を妄想する人はたくさんいるだろうし、ありえない話ではないね」

「けど、今ここは。この首輪の出所を鑑みれば、あなたの探し物は絞られてきます」

「だから君はオーパーツだと推察した」

「未来の異物なんてこの時代ではオーバーテクノロジーでしょう? そんなものを一般人の手のうちに置いとくわけにはいかないはずです」


 オーパーツ──発見された時代では製造不可能な代物。それがならば、その時代で作れなくても辻褄は合う。漂流物と呼称しているのもそういった理由からだろう。

 事情を知らない一般人がネット上に拡散させて話題になってしまったら、大騒ぎになる。そうなれば回収どころではなく、余計な影響がこの世界に及ぶ。だから『対策課』なのだ。


「なるほど。筋は通ってるし、オーパーツは回収しないとマズい代物に違いない」

「違いますか?」


 玉川は含みを持った笑みを浮かべるだけだった。それが小馬鹿にされているように感じ、智紗都は睥睨へいげいしてしまう。


「おっと失礼。他意はないんだ。そういう認識で構わないよ。だからこの世界から漂流物を排斥する必要があるわけで、我々のような部署が存在している」


 彼女も理解はしていた。玉川は玉川なりに責務を全うしようとしているのだと。


 ──だけど私は。


 おもむろに立ち上がり、彼女は足早に去ろうとした。


「おや? もう帰るのかい」

「用件は済んだはずです。お茶の一杯も出ないような場所に長居しても仕方ないと思いますが?」

「あいにくうちは職員用の紅茶しか常備してないんだ」

「じゃあ、私はこれで」

「北野智紗都さん──」


 ドアノブに手をかけたその刹那。男は矢のごとく言葉を放つ。


「一つ、私から訂正しなければいけないことがある」

「え?」

「私たちが言う漂流物はオーパーツに限った話ではない。この世界にないはずのものはすべからく漂流物だ。


 正鵠せいこくを射る一言。智紗都はなにも反論できず、身動きも取れなかった。鋭い視線が痛く背中に突き刺さる。


「この首輪は出会った時からついていた。ビラにはそう書かれてあった。となると首輪だけ転移してきたとは考えられない」

「私が出会う前になにか起きていたかもしれないじゃないですか。私はその首輪が未来のものとしかわかりませんよ」

「本当かな? この首輪に記載されていたプロフィールを見たんだろう? そこに書いてあった住所が神奈川県町田市。そして飼い主の登録名は──。未来の君だ」


 彼はすでに中身のデータにまで目を通していた。やはり抜け目がなく、簡単には騙せない。自分の無力さを痛感し、歯噛みする。


「ダメですか、やっぱり。ティーダをこの時代で飼うことは」

「ダメだね」

「あーあ、せっかく色々考えてからここにきたのに。意味なかったかー」

「どうりで理解が早いわけだ」


 力が抜け、肩がすっと落ちていく。観念するしかないようだ。

 電話を受けた時、智紗都は漂流物が首輪ではなくティーダであることを理解していた。生年月日や住所、登録されていた飼い主の名前。全てがこの世界ではありえない事実──矛盾しているのだ。

 協力したように見せたのは本来の漂流物から目を逸させようとしたためだ。首輪だけ渡せばティーダは渡さなくて済むかもしれないと薄らと期待を抱いて。


「漂流物は存在が時空の歪みそのものだ。放っておけばいずれ影響が出るかもしれない。いわゆるパラドックスってやつだ」

「だとしても……」

「では、こう言った方がいいかな。あの犬をこの時代で飼う意味を君は理解しているのかい? わざわざ首輪型の翻訳機をつけたということは未来の君にとって大切な犬なんじゃないか」

「それは……! そうだ……私が私の幸せを奪うんだ」

「漂流物はこの世界に存在しないはずのものだ。逆を言えばどこかからということになる。今回の場合、奪った相手が君自身だった」

「せっかく……せっかく慣れてきたのに……! 仲よくなれたのに! こんな結末って……ないよ」


 この時代で飼うということはもう一人の自分からペットを奪うということだ。思わず想像してしまう。ティーダがいなくなるという苦痛は想像に難くなかった。なにせ一度味わった痛みだ。

 未来の自分が翻訳機つきの首輪を与えた意味。それは「今度こそ誤解なくわかり合おう。同じ過ちを繰り返さない」と決意したからだろう。それくらい彼と真摯しんしに向き合っていた。

 そんな未来の自分の決意を無駄にするのが今の自分の行動だった。ティーダと幸せな時を過ごせば過ごすほど、未来の自分は失った苦悩に苛まれるのだ。「やっぱり私は飼い主失格だ」と。


「飼い主の微細な変化は感じてるかもしれないが、皮肉なことに犬である彼は時空の転移には気づいていないだろう。だからこそ我々人間側が正しい認識を持っていなければならない。自分の都合を押しつけてはいけない」


 玉川の正論に返す言葉が出なかった。「もう少し、あと少し」という自分勝手な悪足掻きも無駄に終わった。どこまでいっても身勝手で、自分の都合を押しつけていると智紗都は実感する。

 ティーダのため、自分のためを思うなら決断しなければならない。もう目は逸らせない。


「一日だけ猶予をあげよう。しっかり家族と話して欲しい」


 それ以上、玉川はなにも言わなかった。最後通告ということだろう。

 智紗都は役所を飛び出し、街中を無我夢中で駆ける。吹き抜ける春風はひどく当たりが強かった。

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