第6話 いつかくる別れと向き合うこと
ティーダの顔を見れなくなって五日が経った。相変わらず智紗都のスマホに見知らぬ番号からの着信はない。
ベッドに寝転がりながら窓の外を仰ぎ見る。自分の心象に呼応するかのような曇天。悲しみの雨が降り頻るような真っ黒ではなく、なにかをひた隠しするような灰色の雲だった。
そんな折、ノックの音が響く。
「智紗都、いるか? 入るよ」
「答え聞くまで入ってこないでよ。年頃の娘の部屋にさ」
「ああ、それは悪かった」
「で、なんの用?」
徹は俯き、申しわけなさそうにメガネに触れていた。虫の居所が悪かったとはいえ、当たりが強かったかもしれない。智紗都は起き上がり、父の顔と向き合うことにした。
「今日、外食しないか?」
「いいけど……ティーダは?」
「ティーダもいける場所だ」
ティーダのことを問い返してしまったのは悪手だった。彼の言葉を聞いて胸がざわつく。犬同伴可能なレストランはテラス席や屋外席があるところに限られる。思い当たる場所は一つだ。
「なら私は……」
「いいからきなさい。パパもちゃんと話したいことがあるんだ」
「う、うん」
徹は智紗都に言葉を継がせなかった。いつもの温厚な父とはほど遠い、有無を言わせない威厳を感じる。
「じゃあ、五時半頃に家を出よう」
「……了解」
ドアが閉まり、一人になった途端口からため息が漏れる。気乗りはしないが、なにか考えてのことなのだろう。早速彼女は出かける準備に取りかかった。
車でやってきたのは鶴間公園のそばにあるアウトレットモールだった。オープン型の商業施設であるため、ペットの散歩を兼ねて店を回ることができる。
智紗都はアルトを失ってからあまり訪れていなかったが、ここ三年で景観は変わっていない。せいぜいテナントの入れ替えがいくつかあったくらいだろう。
「やっぱりここか……」
予約した店は隣接した南町田駅側にあるニンニク専門店だ。パスタ、ピザ、ステーキと食べやすい洋食系の料理が多い。テラス席もあることから家族で訪れた時の定番スポットであった。
パラソルヒーターが並ぶテラス席に座った瞬間、ガラス片が刺さったかのように胸が痛んだ。アルトがそばで座っている姿を幻視する。思えば、犬を飼おうと決めたのもこの場所だった。
しかしアルトの姿はなく、代わりにいたのは彼より大柄なティーダだ。
「ティーダ、家族で一緒に外食だぞ。嬉しいか?」
徹がティーダに問いかけるが、特に反応はない。吠えないと翻訳機は動かない。
「『うん、智紗都もいて楽しいワン!』」
代わりに答えたのは佐恵子だ。
智紗都は拳を握っていた。母の行動が自分の写し鏡に思え、苛立ちを隠せない。オーダーを取りにきた店員が去ったと同時に言葉がついて出る。
「ママ、やめて。勝手に代弁しないで」
「でもティーダだって……」
「犬はそんなこと思ってない。都合のいい言葉をアテレコしないで。誤解なくわかり合えるわけがないんだ……犬と人間は」
犬の気持ちを人間が正確に理解できるはずがない。自分が抱いた幻想を押しつけているだけ。動物の気持ちを勝手に解釈したテレビ番組のナレーションなんて言語道断だ。
静寂を破るように鳴き声が轟いたのはその直後のことだった。
『みんな一緒! 楽しい!』
「ほら、こう言ってるわよ?」
なんて間の悪い犬だろうと智紗都は思った。むしろ狙ってやってたのではないか。バツが悪くなり、自然と唇を真一文字に結んでいた。
「はあ……あっそ。というかよりによってなんでここなの……嫌味?」
「嫌味じゃないよ。話すならここがいいかなと思ったんだ。家族みんなで楽しく食事ができる時がいいって」
「家族……?」
その言葉が含んでいる意味は彼女も察してはいた。あまりにさらりと言われてしまい、無意識に問い返していた。
「もうだいぶ日が経つけど、未だに連絡はこないんだろう?」
「……うん」
「ならそろそろ私たちも真剣に考えた方がいいんじゃない?」
「パパとママはね。ティーダを正式に我が家へ迎え入れようと思ってるんだ」
注文したピザが運ばれてくる。呑気な佐恵子は早速一枚頬張っていた。一方、智紗都は口を閉口したままだった。
こうなることは想定していた。犬好きの両親がティーダを気に入り、家族として迎えるのではないかと。けれど……その想像をするたびに納得できないという結論に至るのだ。
「首輪ついてるってことはどこかのうちの犬でしょ?」
「そうだろうね。捨て犬にしては人懐っこ過ぎるってパパも思った」
「本当の飼い主は今も探してるかもしれない。後になって出てきたらどうするの?」
「その時はその時かな」
「そうねぇ、仕方ないわね」
「なんでパパとママはそんな簡単に別れを受け入れられるの……」
今度は徹がピザを食べる。真面目な話ではあるが、深刻な話ではない。苦悩しているのは智紗都一人だけだった。
ティーダを受け入れられない理由。それは『別れが目に見えているから』だ。もう二度と悲しい別れを経験したくない。理解し合うことができずに別れるのが嫌だった。それならいっそ、最初から受け入れなければいい。
「私にはティーダにアルトの姿が重なって見えるの。生まれ変わりなんじゃないかって……思ったこともある」
「なるほど……生まれ変わりか。考えもしなかったな」
「だってこんなに懐いてて、『ご主人』っていうのが誤訳じゃないとしたら……そうとしか思えないじゃん。しかも芹ヶ谷公園のこともよく知ってるんだよ?」
これは自分に都合のいい解釈に過ぎない。そんなことは彼女も理解していたが、吐き出さずにはいられなかった。アルトとの記憶を共有している家族ならわかってくれると淡い期待をこめて。
「うーん、そうかなぁ。ママはそう思わないかな」
「パパもだ」
わずかな望みは泡となって儚く消えた。「なんで?」とすかさず聞き返す。
「確かにこの子には前世の記憶があるのかもしれない。生まれ変わって、またアルトが現れたのかもしれない。けどね、智紗都。死んだ生き物は同じものとして帰ってこないんだ。どんなに似ていても、記憶を引き継いでいてもアルトはアルト。ティーダはティーダだ。全く同じものはどこにもない。誰かの姿を重ねるのはこの子がかわいそうだ。そうだろ、ティーダ?」
「人間の思想の話なんてわからないわよねー」
両親の言葉にティーダは首を傾げるだけだった。すぐに容器の中の水を飲み出す。やはり会話をさっぱり理解していないようだ。
「智紗都。誰とだって別れの瞬間はくるんだ。生きている以上、それは避けられないことなんだよ」
「別れるのがわかってて頑張るなんて無駄じゃん……徒労じゃん。例え違う犬だったとしても……アルトの時と同じ悲しみが待ってるのなら私は逃げたい。二度も味わいたくない」
今度ちゃんと頑張っても別れがくる。そんな短い時間の中で自分になにができるのか。なにをしてやれるのか。
時間を捧げても、悲しみが迎えにくるのなら頑張りたくない。目に見える悲劇を避けたいと思うのは人間として自然な心理のはずだと智紗都は感じていた。
「別れがくるのはアルトやティーダ……ペットだけじゃないよ。パパやママとだって別れの時はくる」
「そうよ。私たちだってもう人生の折り返し地点を過ぎてるんだし」
「智紗都はパパとママと別れがくるってわかっていながら仲よくするのは嫌かい? こうやって
「それは……!」
ぐうの音も出ない正論だった。両親と過ごす時間を無駄だと考えたことは一度もない。いつか別れがくるとしてもだ。
「この世に無駄な頑張りなんてないよ、智紗都。短くても、別れが決まっていてもそれまで過ごしてきた時間は記憶という名の宝物だ。だから幸せな思い出をできる限りたくさん作るんだ。その日がきても、お互いに心残りがないようにするためにね」
「それができなかった私はどうすればいいの? 幼い私は別れがくることなんて理解してなくて、その時になるまで気づかなかった。できなかった」
「でも今の智紗都は理解できてるはずだよ。失うつらさを知った今の智紗都なら」
別れは等しく訪れる。それを教えてくれたのは……身をもって体験させてくれたのはほかでもないアルトのおかげだ。
生き物は悔いのないように生きようとする。アルトは最期の瞬間まで生涯を全うしようとした。だからあの夜、鳴き叫んで抵抗したのだ。
智紗都は黙って首肯する。
「罪悪感や失敗した経験は決して悪いことじゃない。同じ過ちを繰り返さないための糧だよ。だから『次を恐れないで』、智紗都」
ずっと犬という動物に対して同じ眼差しを向けていた。また悲劇的な別れを迎えると勝手に思いこみ、一方的に彼の姿を重ねていた。全然違うはずなのに。犬にだってそれぞれ生涯があって、異なる最期があるはずなのに。
智紗都はやっと気づいた。『別れの恐怖』は自信を失ったが故の言いわけに過ぎない。
「私に……できるかな?」
「ペットのことをそんなに深く考えてるんだもの。大丈夫よ、智紗都」
「そうだね。パパもそう思うよ」
『ご主人!』
両親に同意するようにティーダが吠える。『ご主人』という翻訳にどれだけの意味がこめられているかは彼女にはわからない。ただ自分を認めてくれているということは確かだ。
「そっか……私が『ご主人』か。それなら今度こそちゃんと『ご主人』らしくしなきゃだね」
タイミングを見計らったかのように店員がパスタを運んでくる。今度は冷めないうちに食べようとフォークを手に取り、口にする。
──ああ、あの時と同じ味だ。犬を飼おうってここで決めた……あの時と。
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