第5話 本当に嫌いだったのは

 あれから二週間ほど経過した。智紗都の携帯電話に連絡はまだない。管理人の方の進捗もかんばしくないようだった。

 あの日以降も公園に足繁く通って犬連れの人に探りを入れてみたが、収穫はなかった。この辺でサモエドは見たことがないという。


「やっぱ捨て子……? いやでも……この人懐っこさで? 捨てられたこともわからないくらいご主人との絆が希薄だったか」


 自分で放った言葉が抉るように胸に刺さった。ぼーっと窓の外の雨雲を見上げる。「他人のことを責める資格はない」と智紗都の中で黒い感情が渦巻いていた。

 ふと、耳を澄ませる。聞こえてくるのは雨音だけ。リビングからは慌ただしい鳴き声は聞こえてこない。構ってくれる徹と佐恵子がいないから寝ているのだろう。

 足が自然と動いていた。尋ねるなら今しかない。


「ねえ、ティーダ。ねえ」


 語りかけるとティーダは薄らと目を開ける。これでは寝ぼけた翻訳しか返ってこない。

 智紗都は完全に目を覚まさせるために、わざとケージの扉を開放した。途端に彼は喜ぶように飛び起き、体をブルブルと震わせる。


「ごめん。どうしても聞きたいことがあるの」


 身勝手なのは承知の上だ。けど聞かなければずっと心に靄がかかったまま。過去の後悔も今抱える恐怖もできることなら晴らしてしまいたかった。

 息を大きく吸いこみ、語る言葉を整える。できるだけ端的に、明確に。誤訳が起きないようにしっかり伝える。


「あなた名前は……アルト?」


 数秒の静寂。ティーダは首を傾げていた。焦った智紗都はもう一度同じ質問を繰り返す。

 すると──


『違うよ』


 不快感を表すような低い声音だった。翻訳機を通さなくても表情からはっきりと拒絶の感情が伝わる。

 納得できない。彼女はかぶりを振って、答えを聞こうとしなかった。


「嘘だよ。あなたはアルトだよ。だってじゃなきゃ私を『ご主人』なんて呼ばないでしょ?」

『僕、ティーダ!』

「違う……私が欲しかった答えはそうじゃない……!」


 頭を抱え、くしゃりと髪の毛を握る。

 様子を変に思ったのか、ティーダが覗きこんできた。智紗都はそれを払うように顔を背ける。面と向き合う勇気がなかった。


「アルトじゃないならあなたはなんなの……?  私のことを『ご主人』って呼ぶのはアルトだけ! 私は……私はアルトの飼い主で……」


 自分に言い聞かせるはずの言葉が牙を剥く。都合のいい言葉だけを並べているのだと嫌でも自覚せざるを得なかった。

 気づいた時にはすでに涙が溢れていた。


「ううん、違う。そうだよね……アルトは薄情な私を『ご主人』なんて認めてない。呼ぶはずがない。あなたがアルトの生まれ変わりなわけないんだ。全部……私の都合のいい妄想」


 ──「ごめんね……私、なにも気づけなくて。ごめん」


 許されたかった。謝れるのならもう一度謝りたかった。そんな手前勝手な感情が先走って、目の前のものが見えなくなっていた。

 死んだ後も自分の都合のいい妄想を抱いて、挙げ句違う犬にそれを押しつけている。嫌気が差して胸が張り裂けそうだった。


「私はいつもそうだ……あの時だって」


 思い出したのはアルトの最期。自分はなにも変わってないのだ。理解しようとせず、一方的な解釈を押しつけたあの時から。

 いつもケージですんなり寝るはずの彼がその日に限ってごねて鳴き叫んだ。様子が変だとはつゆも思わなかった智紗都は反抗かと勘違いした。夜中だったこともあり、その日は叱りつけて轡をはめて対処した。

 しかし、次の日も同じだった。寝る前までは静かにしているのに、ケージへ入る時だけ抵抗する。それからは諦めてケージから出して寝かせることにした。

 


「アルトは自分が死ぬのがわかってたから鳴いてたのに……私は……! 私は……!」


 自分がいつ天使につれていかれるかわからないから最期の瞬間まで家族のそばにいたい。そんな純粋な願いすら智紗都にはわからなかった。一二年も一緒にいたのに、大事な時ですら意思疎通が取れない。それが自分を『飼い主失格』と評する理由だった。


「あの時翻訳機があれば……ちゃんと誤解なく理解できたのかな」


 ──犬は苦手だ。言葉が通じないから。取り返しのつかない誤解を自分がしてしまうから。


 あの日からずっと暗い感情に苛まれていた。なにをやっても晴れることがなく、唯一できることは同じ過ちを繰り返さないことだけだった。


「嫌いだ……全部全部嫌いだ!」


 脇目も振らず自室へと逃げこんだ。ティーダの正体なんてもうどうでもよかった。

 ただ一つ確かなことは『嫌いなのは犬ではなく、意気地無しの自分』だということ。アルトの死からなにも学んでいない自分自身が……一番嫌いだ。

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