第1話 あなたのおうちはどこですか
エレベーターを使ってそれぞれの階を確認した。飼い主らしき人物はいないか、なにか困っている人はいないか。探しては見るがそれらしき人物は見当たらない。
あまりにも難航し、気づいた時には自宅の前にいた。四月とはいえ夕方はやや冷えこむ。いく当てなくマンション内をうろちょろしたくなかった。
「犬を放置してどっかいったか……いやそれは流石にないか」
智紗都は最悪の想定をしてしまう。飼育放棄で部屋の外へ放り出したのかと。足元を見やる。名前もわからない犬は嬉しそうに尻尾を振って、舌を出していた。
人に対して信頼を寄せているあたり、飼い主から愛想を尽かされたわけではないように思えた。舌は欠けているが、ほかに虐待されたような形跡も見当たらない。
「迷子の迷子の子犬さーん。あなたのおうちはどこですかー?」
しゃがみこみ、歌いながらサモエドの瞳を覗きこんだ。真っ直ぐで曇りのない目をしている。
『ここ!』
「いや、このマンションだってことはわかってるって。はあ……もっとまともな翻訳機だったらなぁ」
返ってきたのは具体性のない言葉だった。何○何号室や飼い主の苗字といった正確な情報が翻訳機から出力されることはない。どこまでいっても『なんちゃって翻訳機』なのだ。
「しょうがない。管理人さんに問い合わせるか」
幸いこのマンションには管理人室がある。入居者の全てを把握しているかどうかはわからないが、頼みの綱はそこしかなかった。
「よし、いくよハク」
『違う!』
智紗都が勢いでつけた名前は即座に否定される。顔を見ると不服そうにしていた。本当に『違う』と言っているようだ。
「え、じゃあシロウ?」
『それも違う!』
「ああ、もう! なんでもいいからいくよ!」
仮の名前をつけている場合ではない。再びエレベーターへと乗り、一階の管理人室へと向かう。
「すみませーん」
「はいはい」
受付から声をかけると、五〇代くらいの白髪の男性が出てきた。中肉中背で、健康的なおじさんに見えた。
「この子の飼い主を探しているんですけど……」
彼女は連れているサモエドと出会った経緯を説明する。なるべく信じてもらえるように一部始終をこと細かに話した。
「それはまた妙なことがあるもんですねぇ。翻訳機がついている犬なんて」
管理人の表情は半信半疑といった様子だ。実際に翻訳機の動作を見せた甲斐あってか、
「ほかの階を探しても見当たらなくて。なにか知りませんか? 犬飼っているおうちとか」
「うーん、犬飼っているところはいくらか知っていますけど……サモエドかぁ。いたっけなぁ」
「心当たりないんですか?」
「ほら、ここはマンションの入り口前にあるじゃないですか。だから犬の散歩にいく人はそれなりに覚えているんですよ。けどサモエドかぁ……どこかの家が新しく飼ったのかな?」
管理人の言い分は最もであった。マンショの出入り口は一箇所しかない。外に出るためには必ず管理人室の前を通らなければならなかった。
管理人は二四時間常駐しているわけではないが、彼が見落としているだけという可能性も低いだろう。朝夕の散歩の時間は管理人がいる時間帯と合致するからだ。よほど早い時間か遅い時間に散歩していない限り目につくはずだ。
「マンションの外から入ってきたわけ……ないですもんね」
「それこそありえないでしょう」
「ですよね……誰かが飼えなくなって、わざわざマンション内に捨てるわけもないし」
誰かに話せば解決の糸口が見つかるかと思ったが、全く見えてこない。むしろ話せば話すほど、智紗都の頭は当惑する一方だった。
「とりあえずこちらでも飼い主を探しておきますよ」
「それまでこの子どうしましょう……」
「すごく懐いていますね、その子。『ご主人』って訳されるのはそういうことでしょう?」
管理人が受付から身を乗り出し、智紗都の足元を覗く。犬は彼女の足にピッタリとくっついて『お座り』をしていた。
『ご主人!』
「え、あ、いや。これはその……」
翻訳機の動作を見せた時に、誤訳であることは管理人に説明した。しかしどうしてそう訳されるのか、理屈は智紗都にもわからない。答えに
「犬の飼育経験はおありで?」
「ま、まあ……多分犬用のケージも家にまだあります」
智紗都は思わず片手で口を覆った。完全に余計な一言。飼いたいと言っているようなものだ。
「もし可能でしたらですけど、しばらく預かってもらえませんか? こちらでも調べて、わかり次第すぐ連絡しますので」
『ご主人!』
再び「ワン!」と吠えた犬は上目遣いで目を輝かせ、尻尾を振っていた。不思議とその姿から目を逸らすことができない。逃げることができなかった。
「はあ……わかりました。すぐ調べてくださいよ?」
智紗都は腹を括る。仮とはいえ、『ご主人』になるしかないようだ。
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