第1章 stray dogの飼い主は誰ですか?

プロローグ 迷犬との出会い

 ──犬が苦手だ。散々楽しみを振る舞ってくれたのに、いなくなる時は唐突だから。なにもできずに終わる。それが怖い。


 北野智紗都きたのちさとが彼と出会ったのは大学から帰ってきた時のことだった。マンションのエレベーターに乗ろうとした瞬間、それは現れた。


「は?」


 新雪のように真っ白な毛並み。笑むように口を大きく開け、舌を見せる。その舌は枯れ葉のように一部が欠けていた。


「なんでなに食わぬ顔でエレベーターに乗ってるの……っていうか飼い主はどうしたの、あなた」


 智紗都は淡々と言葉を連ね、ツッコミを入れる。見れば見るほど不可解な光景だった。

 エレベーターの中に犬だけがぽつんといる。散歩にいこうとしていたのか、首輪にリードが繋がれていた。しかし肝心の飼い主の姿は見当たらない。


 ──犬が独力でエレベーターに乗った? まさかそんなはずはない。


 思案していると白い犬はエレベーターから降りて、尻尾を振りながら足元へと寄ってきた。太陽のように明るく、人懐っこい性格を見て彼女は犬種を思い出す。サモエドだ。

 呆然としていると痺れを切らしたのか、犬は「ワン!」と一吠えする。それと同時に奇妙な音声がエレベーターホールに鳴りはためいた。


『ご主人!』


 鳴き声を代弁するかのような女性の流暢な声。犬が喋ったのかと思ったが、よく聞くと機械的な声音だ。

 ふと、サモエドの首輪に目がいく。一見普通の首輪だが、喉元に寝かせたボールペンほどの大きさの機械がついている。


「翻訳機……? そういえば昔おもちゃであったっけ」

『ご主人! ご主人!』


 首元を覗きこむと確かに音が聞こえる。昔のおもちゃとは全く形が違うが、首輪が翻訳しているのは間違いない。


「なにか勘違いしてない? 私、ご主人じゃないよ? 散歩に連れてって欲しいって気持ちはわかるけど」

『ご主人! 散歩!』


 最近の犬事情について智紗都は詳しくなかった。首輪型の翻訳機が話題となっているとも聞いたことがない。

 自分を『ご主人』だと誤訳しているのだから、精度はたかが知れているレベルなのだろう。昔のおもちゃと大した進歩はしていないなら、話題にならなくて当然だ。


「はあ……仕方ない。飼い主探すか。ほら、いくよ」


 このまま『ご主人』と呼ばれ続けるのは気分が悪い。つらい記憶がじわじわと蘇る。

 しかし見て見ぬフリをすることもできなかった。この犬に自分のやる瀬ない気持ちをぶつけるわけにもいかない。堪えながら、智紗都はリードを手に取る。


『ご主人! 散歩!』

「だから違うって! 私はご主人じゃないし、散歩もいかない!」

『ご主人! 散歩!』

「だーかーらー!」


 ──やっぱり犬は苦手だ。底抜けに明るく見えて、気持ちがわからないから怖い。自分のことをどう見ているのか。


 彼女は心底うんざりした。

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