第6話 渾身の力作

 締め切りまで七日。休みはあと二日残っているが、無駄にできる時間はない。プロットを先に練り、仕事から帰ったらすぐに筆を執れるように準備を試みた。


「来週の日曜までか。土日含めても休みは四日」


 自室でタブレットを眺めながら、独りちる。

 時間が足りない。優は金曜日に有給休暇を取ることに決めた。新入社員だが、数ヶ月経っている今なら三日分は取得できる。

 今使わなければいつ使うのか。幸い繁忙期ではなかったため、上司はすんなりと承諾してくれた。これで小説に注力できる。

 まずはプロット作りだ。最初はほのぼのとした日常系の話を書こうと思ったが、それはすぐに取り下げた。天寧がそんなものを望んでいるとは思えなかったからだ。

 淡々と進んでいく日常生活を読ませるのは酷でしかない。変わらない日常に希望を見出せるとは思えなかった。


「なら、自分が最高に面白いと思う短編を作るしかない!」


 締め切りがある以上、できることは限られている。冒険もののファンタジーでは尺が足りない。一作品で完結しているもので、主題が真っ直ぐ届くものとなれば……やはり人間ドラマだろう。

 山あり谷ありな人生。挫折を越え、「それでも」と立ち上がるカタルシス。人間ドラマなら物語のスケールを広げなくても、それを存分に表現できる。


「立ち上がる強さ。折れたとしても、もう一度立ち上がる。つらくても希望を持ち続けるんだ」


 物語のテーマは天寧が教えてくれたことだ。鏡として言葉が跳ね返ってくるとは思ってもみなかっただろう。

 しかし言うはやすし、行うはがたし。どんなに理解していて、口にできた言葉でも自分の行動に反映できていないものもある。自らをかえるみず、他人を励ましていたのだから間違いない。


「あま姉はきっと咀嚼そしゃくできてないんだ。自分の思想にまで昇華してない。だからこそ俺の小説で後押しできれば……!」


 それから優はひたすら書き続けた。仕事の日は休み時間にメモを書き、帰ったらすぐに本文が書けるように努めた。

 木曜日が終わり、金曜日がくる。有給休暇でもやることは変わらない。ただひたすらに書く。

 天寧は彼のそんな様子をただ黙って見守っていた。邪魔をしてはいけないと思っていたのだろう。これまで以上に集中していると、優自身も自覚していた。

 推敲をし、誤字脱字がないか最後までチェックする。詰めるところは徹底的に詰めた。その甲斐あってか、ついに最高の一冊が完成した。


「できた……あま姉」


 近所のコンビニで印刷してきたものを彼女に手渡す。本のようにじられていないが、紙で読んで欲しかった。優にとってはそれくらい会心の出来だったのだ。


「ありがと。読むね」


 天寧もこの時を待ち望んでいたのだろう。受け取った瞬間、固唾かたずを飲むのが見てとれた。

 一枚一枚ページがめくられていく。優は黙ってそれを見つめる。人事は尽くした。あとは信じるしかない。


「この小説……」


 冒頭部分を読み終わり、物語の内容をあらかた把握したようだ。彼女の口から声が漏れたのはそのためだろう。

 優が書いた物語の主人公──紘斗ひろとは役者を志す青年だ。劇団に入り、経験を積んで青春を謳歌していた。いつかは銀幕デビューして、売れっ子俳優になる……

 彼を待ち受けていたのは大きな挫折だった。紘斗は病気を患い、左目の視力をなくしてしまったのだ。

 紘斗は残された右目だけで役者を続けようとするが、困難を極めた。暗転する舞台の上では自由に歩けず、こけて想定外のハプニングを起こすこともしばしばだった。

 たかが片目を失っただけだと思っていたが、その損失は心を侵食するのには充分だった。結果、役者の道を諦めざるを得なかった。彼の青春はそこで幕を閉ざしてしまう。自分はもう輝けないのだと。


「大丈夫。最後まで読んで」


 書いている時、優の中では一つだけ懸念があった。それはつらい展開、しんどい展開を書くことになることだ。

 綺麗ごとをただ並べただけでは物語のテーマは響かない。響かせるだけの説得力、背景を作るにはどうしてもキャラへの試練が必要になる。人によっては心が折れて、読むのをやめてしまうかもしれない。


 ──あま姉なら大丈夫だ。テーマをブレさせなければきっと俺の言葉は届く。


 悩みながらもタブレットのキーボードをタップする。自分の中にある届けたい想いを信じ、一文字一文字に乗せていった。

 優の言葉を信じ、天寧は黙々と読み進めていく。

 紘斗はその後自暴自棄になり、自分の存在意義を見出せずにいた。役者仲間は今もなお輝き続けているのに、自分は床に伏せる体たらく。惨め過ぎる自分に嫌気が差し、自殺を考えるほどだった。

 そんな中、彼は一冊の本に巡り合う。そこで彼は気づいた。


「役者だけが表現者じゃない……!」


 片目が不自由でも、手が残っている。明るい場所で文字を書くことはできる。もともと役者として脚本の勉強もしていたのだから、うってつけだ。紘斗は暗闇の中で一縷いちるの希望を見出した。

 つたないながらも彼は懸命に物語を綴っていく。再び歩みを進め、もう立ち止まらない。短編だけでなく、長編……そしてついにはドラマCDの脚本まで手がけるようになった。


「うん。うん」


 物語に相槌を打つかのように、天寧は頷いていた。物語はクライマックスを迎えたのだろう。

 ドラマCDのキャストはかつての役者仲間だった。お互いにダメ出しし合い、切磋琢磨していく空間。以前のように分け隔てなく接してくれる友人たち。次第にお互いの夢の話をするようになり、自分の未来を思い描いていた。

 紘斗は役者を目指していたあの頃かのように錯覚した。希望や輝きで満ちていたかつての自分。いや違う。

 失ったとばかり思ってた青春や希望の輝き。それは自分の早とちりだった。絶望の中でも探せば手に入るのだ。自分は目先の闇に囚われていただけ。

 外の世界は誰かの輝きで満ちていて、絶えず照らしている。そしてその輝きは誰かに触れることでより強くなり、遠くまで届く。


「今度は自分が光になりたい。闇から誰かを救う、希望を与える人間でありたい」


 紘斗はそう決意し、これからも作家としての人生を歩んでいく。彼はもうどんな絶望にも負けない。その度に希望を持つことを思い出し、立ち上がるのだ。


「はぁ……」


 ため息にも似た深い息遣い。天寧は静かにプリントをテーブルに置いた。


「どう……だった?」


 優は恐る恐る尋ねた。自信作ではあったが、自分の言葉が届くかはわからない。上手くても肌に合わない物語というものなんてこの世にごまんとある。


「面白かったよ。本当は真っ直ぐに『生きることのつらさと楽しさ』を伝えたいのに、わざと捻くれた展開にして……私が読みたかった物語だった。やっぱどこにいても優くんの小説は変わらないね」


 天寧はうっすらと涙を浮かべて、思いの丈を話した。自分が追い求めた作風は間違いではなかったと優は改めて思った。


「でも……」

「でも?」


 唐突に出てきた否定の言葉に面食らう。なにか気にかかることがあったのか、完璧ではなかったのかと一抹の不安が胸に巣食う。

 息を飲んで続く言葉を待つ。それは予想外なものだった。


「こんなの読んだらまだここにいたくなっちゃうじゃん」


 その顔を見て優は確信した。自分も頑張れば誰かを笑顔にすることができる。作家として希望を与える力がちゃんと存在していたのだ。


「お気に召したのは嬉しいけど……わがままだな、あま姉は。まだ俺の作品が読みたいなんてさ」

「できるならずっと読んでいたいよ。だって私は優くんの一番のファンだから」


 向こうの世界の優は筆を置いている。天寧を笑顔にすることを諦めている。そんな状態であるなら、彼女がこの世界に留まりたいと思うのも無理はなかった。

 彼女の言葉は素直に嬉しかった。しかし……受け入れることはできない。


「一番のファンならやること違うだろ? 向こうの俺も信じてやれよ」

「え……?」


 天寧は帰さないといけない。玉川との約束もあるが、彼女には自分の世界と向き合って欲しかったのだ。紘斗の物語をかてとして。


「大丈夫だよ。きっと向こうでも俺はまた筆を執ると思う。だってどんなにつらくても、絶望しても『小説を書くのが好きだ! 頑張りたい!』っていう希望に満ちた心は消せなかったからさ。今回俺が筆を持ったのは罪悪感や後悔に苛まれたからだけじゃないんだ。ちゃんと楽しめてたんだ、俺」


 誰かを想って久しぶりに小説を書いた。笑顔になってくれるだろうか。伝えたいテーマは届くのだろうか。希望に満ちた苦悩を抱えながらも楽しんだ。天寧が生きていた頃と同じだ。


「そっか……私のためだけじゃなかったんだね。ちゃんと楽しめて書けてたんだね」

「だからそっちの俺も同じだと思うんだ。また這い上がってくると思う。もし信じてくれるなら、そっちの俺がもう一度立ち上がるのを待って欲しい。あま姉につらいことを強いているのかもしれないけど」

「本当に? 絶対?」

「ああ! ほかでもない俺が言うんだから間違いない!」


 優は迷わず頷いた。

 些細な違いはあるかもしれないが、同じ作家和泉勇矢なのだ。捻くれながらも誰かを笑顔にしようと希望にしがみついているに違いない。その芯は共通しているはずだと、天寧の感想を聞いて確信した。


「そこまで言うなら……わかった。私、帰るよ。自分の世界で頑張ってみようと思う」

「あんま頑張らなくていいよ。隣には俺もいるからさ。頼りたい時に強がらず、素直に頼ってくれればそれで」

「それもそっかー姉弟だもんね。わかった! じゃあ、いこう優くん」

「ああ」


 二人は家を出て玉川のもとへと向かう。夢のような時間とお別れを告げるために。

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