エピローグ 夏の続き

 夏休みが終わり、九月を迎えて数日が経つ。意味を見出せないでいた大学生活が戻ってきた。


「いってきます!」


 誰もいない部屋に威勢よく言葉をかける。もちろん返ってくる言葉はない。美桜はもうこの世界にはいないのだ。

 それでも意気ごんで登校できたのは彼が変わろうという意思を強く持ち始めたからにほかならない。加えて、今朝見た夢が背中を押してくれた。夢と言うにふさわしい幸せ過ぎる幻想だ。


 ──冬のある日、僕らは再会したんだな。


 夢の中の泰介は高校生で、駅で調子を崩しているようだった。周りの人は目もくれず、知らんぷりで通り過ぎていくだけ。人間の善意なんて微塵みじんも感じられない最悪な出だしだった。

 たった一人、高校生の女の子だけが彼に手を差し伸べる。見間違えるわけがない。その少女は自分がよく知る小林美桜だった。

 美桜は言う。「私ね。君に助けられたことがあるの」と。夢を見ていた泰介はその言葉に覚えがあった。あの夏のできごとだ。

 美桜がいてくれた甲斐あってか、しばらくして夢の中の彼は体調を回復させた。

 そうして二人は別れの言葉を交わす。「」と。連絡先を交換してないのにもかかわらずだ。

 夢はそこでプツリと終わった。始まりを予感させるだけでハッピーエンドは訪れない。


 ──僕の願望が生み出した『もしもの妄想』か。はたまた並行世界で起きている『現実』を垣間見たのか。


 専門家ではない泰介には答えは出せない。高校生の自分が体験した記憶ではないことだけは確かだ。

 彼はだと信じようと思った。どんなことも信じるか信じないかは自分次第なのだ。


「それなら……ロマンのある方を信じてた方がいいよな」


 未曽有みぞうの体験をしたのだから信じたくもなる。そんな回想をしながら電車に乗っていると、キャンパスに着いていた。

 一限目の教室は百人ほど収容できる大部屋だ。すでに後ろの席の大半はモチベーションの低い学生に占拠されている。

 泰介は仕方なく最前列の誰もいない席に腰かけた。机は三人がけだが、隣には誰もいない。大学に友達がいればこんな空虚な席にはならなかっただろう。


「今は寂しくてもいつかはきっと……」


 こんな席とはおさらばしてやると自身を奮い立たせる。ハッピーエンドは自分で掴み取るのだ。向こうの世界の美桜が教えてくれた『一歩踏み出す勇気』を胸に秘めて。

 やがて始業のチャイムが鳴った。すでに準備を終えていた教授はすぐさま講義に入る。泰介もノートとテキストを開き、真面目に集中しようとした。

 ちょうどその時だ。教室の扉が開き、一人の学生が慌ただしく教室に駆けこんできた。


「あの子……」


 背中まで伸びた黒髪が特徴的な女の子だった。

なんとなく顔が知人に似ていた気がしたが、この大学に男友達はおろか女友達はいない。見間違いか、よく見かけるから一方的に顔を覚えているかといったところだろう。

 そんな中、彼女が座ったのは泰介と同じ机の席だった。すぐに座れそうな席はそこしかなかったのだ。


「あれ……? ないなぁ。どうしよう……」


 二つ隣の席から大きな独り言が聞こえてくる。傍目はためで彼女を見遣る。カバンの中を探しているが、一向に教科書が出てこない。かなり焦っているようだった。

 友達がいれば貸してもらえただろうにと思ったが、最前列に座ったということはこの講義に友人はいないのだろう。テキストなしで講義を聞くのは地獄だろうなと泰介は同情した。


「情けは人のためならず……だよな」


 自分の言葉であり、美桜が教えてくれた言葉。誰かに渡した優しさは返ってくる。優しさを手渡すことを躊躇わず、一歩前へ。


「あの……テキストないんですか? よかったら」


 泰介は恐る恐るテキストを机の中心へとスライドさせた。どんな言葉が返ってくるのだろうか。少し怖く、相手の顔を見ることができなかった。


「いいんですか……? 迷惑じゃないですか?」

「いや全然。自分がテキスト見れなくなるわけじゃないし」

「ありがとうございます! じゃあお言葉に甘えて」


 直後、彼女が一つ分席を詰めてきた。三人がけの机の端と端では見づらいと考えたのだろう。

 その行動に驚いた泰介は思わず彼女の方へと向いてしまう。そして……言葉を失った。


 ──え……? 美桜?


 忘れるわけがない。その顔も声音も覚えている。自分の隣にいるのはなのだ。まさか同じ大学に通っていたとは夢にも思わなかった。


「どうかしました……? あ、もう少し離れましょうか?」

「い、いや! なんでもない! こっちの話!」


 美桜は頭にクエスチョンマークを浮かべるように小首を傾げていた。言えなかった。「小林美桜さんだよね?」なんて。

 会話はそれっきりだった。泰介から話しかけるような内容もなかった。

 彼女は自分が知っている美桜ではない。一緒に過ごした夏の思い出を持っていない。ここでは赤の他人なのだ。


 ──やっぱりこの世界の美桜も同じなんだ。


 講義中になにげなく察してしまう。彼女も真面目な学生で、脇目も振らずに集中していた。あの日美桜が語った心の淀みをきっと同じように抱えている。

 再びチャイムの音が鳴りはためいた。彼女の横顔を覗いているうちに、講義は終わっていたのだ。各々が次の講義へと向かうために席を立つ。


「テキスト見せていただいてありがとうございました。本当に助かりました」

「あ、うん。どういたしまして」

「それじゃあ、私も次の講義にいきますね」


 会話が終わってしまいそうになる。なにもできずに終わってしまう。


 ──それじゃダメだ。約束したんだ、美桜と。一歩踏み出すって決めたんだ。


 わずかな進みではあるが、自分の道を決める重大な進み。確かな一歩を……今、踏み出す。


「あのさ! もしよかったらだけど……また一緒に講義受けない? その……僕この講義に友達いなくてさ」

「え、えっと……」


 駅前で美桜に声をかけた時のことがフラッシュバックする。言葉を待つ間に、恥ずかしさが泰介を襲った。ただテキストを貸しただけでこんなことを言うのはおかしいのかもしれない。

 それでも自分の本心にもう嘘はつけなかった。


「言うの恥ずかしいんだけどね。私も……友達いないんだ。だから一緒に受けてくれる人いるのは……心強いかな、なんて」


 よほどこそばゆかったのだろう。美桜は頬を掻いていた。想いを告白してくれた時と寸分違わぬ、照れた時特有の仕草だった。

 泰介の心が喜悦で満たされる。交わした約束、一歩踏み出すこと。その両方を叶えることができたのだ。


「あのお名前を聞いてもいいですか?」

「泰介、青山泰介」


 二度目のやりとり。改めて彼女が自分の知っている美桜ではないことを思い知る。悲しみは微塵もない。目の前にいる美桜とも面と向かっていこうという前向きな心持ちで一杯だった。


「私は──」

「美桜ちゃんでしょ? 小林美桜」

「え、なんで知ってるんですか?」


 自分の名前を当てられたことに美桜が驚嘆する。いぶかしむわけでなく、理由がわからず唖然としているといった面差しだった。


「それはまた追々ね。絶対話す日がくると思うから。それじゃ、!」

「え、あ、うん! !」


 泰介は颯爽さっそうと教室を飛び出した。

 今はまだ言うことはできないが、いつか彼女に告げるだろう。一夏の思い出のことも、運命の赤い糸のことも。

 愛は次元も時空も越えて再び紡がれる。二人が巡り会うのはいつもこの街だ。夏の恋は終わらず続いてゆく。

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