第7話 瀬名くんちのバラ
真っ黒に日焼けした自分の顔を見て、何て自分らしくない、と思った。いつもだったらバレエのために日焼け止めを塗ったりしていたし、出かけることすらそんなになかったのでこれほど焼けたりはしなかったのに、今年は瀬名くんちに入り浸りでバラの世話をしていたので、いつもの二倍は黒くなってしまった。
「ま、いっか」
これもこれでいい気分だ。肌に現れたわたしの夏休みの記録。
「行ってらっしゃい」
お母さんは体調不良で今日はお休み。布団の中からわたしに声をかける。
「気をつけてね」
お母さんが微笑む。わたしも笑って、
「行ってきます!」
と家を飛び出す。街路樹はどれもしっかりと茂り、夏の強い日差しに負けないように濃い色になっている。花は少ないが秋が深まれば増えていくだろうとおばさんは言った。瀬名くんちを覗くと、おばさんとタカラと目が合った。
「行ってらっしゃい」
と言うのでこちらも行ってきますを返す。まるで自分の家みたい。瀬名くんはすでに出たあとらしい。たまには一緒に登校してくれてもいいのにな、と思う。
一年生から六年生までの子供たちが通学路に立った民生委員さんに挨拶をする。わたしもそっと挨拶をし、小学校に軽い足取りで向かう。
そろそろわたしも友達を作るべきときだと思った。もう前の学校のことばかり考えるわけにはいかない。友達を作って、おしゃべりをして、挨拶をして……。そうだ、と思う。今日は教室に入るときに「おはよう」と言ってみよう。
ドキドキしながら校舎に入る。廊下を歩き、前を行くクラスメイトの女の子が「おはよー」と言いながら教室に入るのを参考に、一息つく。
「おはよう!」
そう言いながら教室に入ったら、みんなびっくりしていた。それもそうだ。いつも黙って入っていたし、うつむいていたから。
「おはよう」
河合さんがにこっと笑って返してくれた。このクラスでは一番穏やかで、大人っぽい女の子。それを皮切りに、その周りの子が「おはよう」と続けてくれる。嬉しかった。
「仲村さん、日焼けしたねえ。何かやってた?」
「うん、夏休みは楽しかったよ。ずっと外で遊んでた」
「へえ。わたしはおじいちゃんちに行ってたかなー。長野県の山奥に住んでるの」
「いいな! わたしのおじいちゃんは静岡なんだ。そこそこ市街地だから、自然はそんなになくて……」
河合さんは笑いながらわたしと話しをしてくれた。そこに色んな人が集まってきて、夏休みの思い出話をした。海に行ったり川に行ったり海外に行ったり……。どれも素敵だったけれど、わたしの瀬名くんちでの夏も大したものだと思っていた。
そんなとき、別の女の子たちがひそひそとしゃべっていた。
「さっき見た? 後藤くんが瀬名くんのこと、『バラ男』って言ってたよ」
どきっとした。見ると瀬名くんは固い顔で自分の席に座り、後藤くんと北島君は別の場所から彼のことを見ている。少し意地悪な顔で。
「友也、バラ育ててるんだぜ。女みてー」
後藤くんが言うと、気の弱い北島君が曖昧に笑う。
「花の世話するのなんて、女のすることだよな」
他の男子も一緒になって、瀬名くんのことを冷やかす。わたしは何も言えない。助けてあげたい。でも、わたしが瀬名くんをいきなりかばったりしたら何を言われるだろう。瀬名くんと仲がいいことがばれたら、瀬名くんは嫌かもしれない。
そのまま瀬名くんは一人で怒ったような顔のまま過ごしていた。女の子たちは「やめなよ」と言うが、男の子たちは後藤くんに同調してからかってばかりいる。北島君が止めてくれたらいいのに。でも、北島君はそうしたくないみたいだ。勇気がないらしい。でも、それはわたしだって同じだ。
お昼休みも、同じ班で給食を食べていたら、後藤くんがしつこく「女男」だとか「バラ男」だとかからかいに来る。先生が止めるが、全く言うことを聞かない。瀬名くんは無表情だ。いじめられる瀬名くんなんて、見たくない。
「あれ母ちゃんのバラだから関係ないよとか言ってたのにさ。母ちゃんと一緒に世話してんの。花が似合う男だよな。な、友也」
後藤くんが何度目かに言いに来たとき、わたしは「やめなよ」と静かに言った。後藤くんがびっくりしてわたしをまじまじと見る。瀬名くんが目で止めようとする。でも、構うものか。
「瀬名くんがバラを育ててるからバラ男なんて、幼稚だよ。バラは男の人だって育てるし、世界中で色んな人が育ててるからこんなにたくさんあるんだよ。ユーチューブやってる、日本で一番大きなバラ園の伝説的なガーデナーは男の人だよ。女の人も育てるけど、男の人だってたくさん育ててるんだから。狭い世界を見てバラは女のものだなんて判断するなんて、ホント幼稚。後藤くんだってちゃんとバラの花を見たら、そんなこと言えないはず。バラってきれいなんだよ。きっと後藤くんもそう思うよ」
後藤くんは黙ったままわたしをぽかんと見つめ続けた。クラスメイトたちも大体同じ反応だ。瀬名くんは給食のお皿をじっと見つめ、それから振り向いて後藤くんに声をかけた。
「ごっちゃん」
後藤くんがびくっと肩を震わせた。
「この間、ごっちゃんがピンクのTシャツを着て来たとき、女みたいって言ってごめん」
瀬名くんはぺこりと頭を下げた。後藤くんは段々情けないような、困り果てた顔になる。
「おれ、バラ好きなんだ。みんなに内緒にしてたけど。母ちゃんに影響受けて世話する手伝いをしてるうちに好きになってさ……。きれいだよ。おれが育てたバラ、ごっちゃんにも見てほしい。ヤスにも」
北島くんがびくっとして、次に泣きそうな顔をした。ほっとしたような顔だ。
「だから……、うん。今度おれのバラの紹介するから秋に来てくれよ。秋になるとホントきれいなんだ」
後藤くんがうなずいた。それから「ごめん」とつぶやいた。
「あたしも来ていい?」
活発な女の子の佐藤さんが声をかけた。前にわたしの噂話をしていた子だ。瀬名くんは「いいよ」とうなずく。
「えー、わたしも! 瀬名くんのバラ見てみたい!」
「わたしもわたしも!」
教室中がにぎわい出した。わたしは微笑み、何だか寂しい気分になった。
「みなさん、静かに食べなさい。昼休み時間がなくなりますよ」
尾崎先生が教室に声をかける。それから瀬名くんに笑いかけ、
「先生も機会があったら見に行きたいですね。家庭訪問のときはゆっくり見られなかったから」
と言う。
「それから仲村さん」
わたしはびっくりする。尾崎先生がわたしに話しかけることなんてめったにないから。
「仲村さんはバラに詳しいんですね。感心しました」
わたしは曖昧に笑い、きっと先生は色んなことを知っているのだろう、と思った。それで、言わないのだ。わたしは初めて先生のことをありがたく思った。
*
秋のバラは、フェンスのツタバラから始まった。尖ったように咲く白いバラは、芳香を放ってこちらを優しい気分にしてくれる。中に入ると、ピンクのバラ、赤いバラ、黄色いバラが様々に咲き誇る。全体が丸っこくて花びら一枚一枚がハート型になっているポリアンサローズという種類のバラは、可憐でテラコッタの大きな鉢から垂れ下がるほどたくさん咲いている。もちろんラベンダーの紫の花も咲く。ローズマリーも小さな白い花を咲かせて香りを放つ。
「うわー、すごーい。これ全部瀬名くんのバラ?」
女の子の質問に瀬名くんが答える。
「まさか。母ちゃんのだよ。おれのはそこにあるいくつかのミニバラ」
大きめの白いミニバラがたくさん咲いている。一つの枝からいくつもつぼみが伸びているところを見ていたので、咲くととても嬉しい。
「友也、バラって食えんの?」
そう訊くのは後藤くんだ。瀬名くんは笑い、
「ごっちゃんは食うことばっかり! バラは食べられる品種もあるけどうちのは食べられないよ。でも母ちゃんが今からゼリーとグミの実持ってくるって。ゼリーは母ちゃんの手作りだし、グミは夏のうちに収穫して取っといたやつだからうまいよー」
「やった!」
わたしは五人ほど集まったうちの端のほうにいて、何も知らないような顔でいたけれど、河合さんにはばれてしまった。
「美雨ちゃん、ここに来たことあるでしょ」
「えっ、何で分かったの……?」
「何か慣れてるから」
河合さんはくすくすと笑い、わたしはにっこり笑った。
「うん、何度も来たよ。わたし、数えられないくらいここに救われた」
「みんなー。ゼリーとグミ持ってきたよ! 家に入りなさい。暑いから」
おばさんがわたしたちを呼ぶ。タカラはそのそばに控えている。がやがやとみんなで家に入り、おばさんと目が合うとにこっと笑ってくれた。わたしも笑みを返す。そのまま賑やかな、楽しい時間を過ごした。わたしはすっかりみんなと打ち解け、仲良くなることができた。
夕方になり、みんなが帰ってしまうと、理由をつけて最後まで残っていたわたしは、瀬名くんと一緒に庭に出た。
「みんな帰っちゃったねえ」
「お母さん待ってるんじゃない? 時間大丈夫?」
「お母さんは仕事だから。うん、でもそろそろ帰ろうかな」
タカラがとっとっとっと歩いてきた。わたしはその頭を、ごわごわした毛の生えた大きな頭を撫でる。生き物の体温。バラが夕方の薄紅の空を背景に咲き誇る。白いバラ。ピンクのバラ。黄色いバラ。深紅のバラ。ツタバラ。ミニバラ。ラベンダーにローズマリー。実をつけるフェイジョアやグミやブルーベリー。わたしはここにずっとこもっていた。
「瀬名くん。『秘密の花園』って知ってる? 児童文学」
「ああ、知ってる。庭を世話する話だよな」
瀬名くんらしい解釈だ。わたしは『秘密の花園』と言ったら秘密の花園の中で女の子の心が解きほぐれていくという過程が大事なのだが。
「ここって、『秘密の花園』みたいじゃない? わたしは大好き」
言葉に出してみるととても清々しかった。ここはわたしの秘密の庭。バラがあって、タカラがいて、おばさんがいて、瀬名くんがいる。わたしの秘密の花園。
「何だそれ。何かロマンチックすぎない?」
瀬名くんは笑っていた。
*
くたくたな様子でお母さんは帰ってきた。もう限界のようだった。人手の足りない施設で働くのも、一人で家を回すのも、わたしのことを考えるのも。よろよろと寝室に入り、そのまま起きなかった。わたしはお母さんのために簡単なご飯を作った。目玉焼きに、ベビーリーフに、焼いたベーコンにご飯。朝食みたいだけれど、わたしにはこれが精いっぱいだ。お母さんが部屋から出て来た。
「いい匂いがする。これ、お母さんの?」
「うん」
「ありがとう」
お母さんはかすかに笑った。そして、同じローテーブルに置かれたものを見た。瀬名くんちのバラだ。淡いピンク色で、少し開きかけた、きれいになる直前のバラ。空き瓶に活けただけの、簡単な状態のバラ。
「きれいだね」
お母さんはそれに見とれた。ピンク色のバラは、なめらかで触るとビロードのような触感だ。でもお母さんはただただそれを見つめ、
「きれいだね、本当」
と、涙をこぼした。
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