第6話 長いトンネルの向こう

 瀬名くんはきっとバラが好きなのに、どうしてあんなことを言うんだろうな。そう思いながら、お母さんのスマートフォンをいじる。お母さんは休日なので寝室でぐったりと寝ていて、スマートフォンを使っていいのはこういうときだけだ。不便で仕方ない。前の家ではタブレットもあったし、パソコンだって使えたのに。

 バラの育て方について調べていた。わたしも鉢植えのミニバラくらいは育てられたらいいのに、と思ったからだ。するとトップのほうにバラの育て方の動画サイトが出てきて、わたしはそれに見入ってしまった。ああ、これを瀬名くんに見せたい、と思った。

「美雨、動画は容量取られるからやめてね」

 奥のほうからお母さんの声が聞こえ、惜しみながら動画を閉じる。わくわくして仕方がなかった。きっと、瀬名くんは喜んでくれる。

「あとね、美雨」

 今度はお母さんが引き戸を開いて、ざんばらの髪のまま力なく言った。

「明日のお昼はお父さんとご飯だから」

「えっ」

「だから瀬名くんのお家には明後日行ってね」

「うん。お母さんは……」

「お母さんは行かない。お父さんが迎えに来るから二人で食べてきて」

 後ろ姿のまま、お母さんはぞんざいに言ってぴしゃりと引き戸を閉めた。それからまた部屋は静かになった。

 お父さんに会えるのは嬉しいけれど、何だかお母さんに申し訳ない。でも、瀬名くんちの庭の話や、タカラや、おばさんや、瀬名くんの話をしたら、お父さんはきちんと聞いてくれるに違いない。お父さんはそういう人だった。だから、泣きそうに嬉しかった。


     *


「そうなのか。瀬名くんね。いい子なんだね」

 お昼過ぎにやって来たお父さんは、ちょっと離れた高級なお店のランチをごちそうしてくれた。それにしても、お腹が空いて仕方がなかった。お父さんは十時に来るはずだったのに、二時間以上も遅れてやって来たのだ。それからお腹が空いているわたしが車酔いしているのも知らずに、何だかそわそわしていて、服も見たことのない洒落た高級そうなものばかり身に着けているし、何だか嫌な気分だった。お腹が空いていたものの、車酔いしてしまったのでわたしが好きなあさりが入ったあっさりしたパスタが出てきても、全然嬉しくなかった。お店は子供もいるけれど気取った店なので居心地が悪い。以前は平気で来ていたような高級店だけれど、すっかり庶民的になってしまったわたしには、何だか合わない。おばさんの作った手作りのゼリーやクッキーが食べたい。生ぬるいグミの実や、ブルーベリーの甘酸っぱい実を口に放り込みたい。もちろんお母さんのカレーだって。

「そう。男のくせにーとか女のくせにーとか言っちゃうんだけどね。いい子だよ」

 瀬名くんは確かにいい子だ。学校の成績はそんなによくないし、鈍感だし、酷いことをズバッと言ってしまうけれど、植物を扱う手は繊細で、わたしのこともよく見てくれている。

「そうなんだね」

 お父さんは何だか上の空だった。時々スマートフォンを見て、焦ったような顔をする。

 ようやく食欲がわいてきたので、少しずつパスタを食べ始めていたら、お父さんはスマートフォンを見て、

「ちょっと行ってくる。すぐ戻るから」

 と席を立った。わたしはうなずき、一人でパスタを食べた。そのまま、十分も十五分も経つ。パスタは空になってしまった。おずおずとお水のお代わりを店員さんに頼み、じっと一人、お父さんを待つ。

 お父さんが大慌てで外から戻ってきた。わたしはすっかり冷めきった気分で、お父さんが席に着くのを待つ。

「新しい奥さんから?」

 お父さんがぎくりと肩を震わせる。

「お父さんがわたしに会いたいんだと思ってた。そうじゃなかったんだ」

「もちろん美雨に会いたかったさ。でも、あんまりそうできなくて……」

「何のためにわたしと出かけたの?」

「会いたかったからだよ」

 わたしはうつむいた。そのまましゃべらなかった。

「お父さんも仕事が忙しかったり家庭のことがあったりで美雨に構えないけど、美雨のことは本当に大切に思ってる」

「世界で一番?」

「世界で一番」

 お父さんはうなずいた。以前のお父さんだったらこのあと続きがあったはずなのに。

「世界でただ一人のお父さんの娘だから」

 そう言うはずだったのに。

 きっと、お父さんはお別れのためにわたしと出かけたんだ。


     *


 お母さんは髪を簡単にくしでとかし、一つにひっ詰めて、黒いリュックを背負って大慌てで出かけていく。

「美雨、戸締りには気をつけてね」

 お母さんの言葉に、わたしは微笑む。

「うん。行ってらっしゃい」

 瀬名くんちに行くと、タカラはわふっと吠えてわたしが来たことを瀬名くんに教えた。瀬名くんは気のない顔でこちらを振り向く。まだあのときのことを怒ってるんだな、と思ったけれど、わたしはいつものように鉄柵を開いて中に入り、庭の風景を堪能していた。緑ばかりの風景だけれど、バラも小さく咲いているし、葉っぱはどれも元気だし、本当によく手入れしてある。わたしの理想の庭。

「おーい、美雨ちゃん。クッキー焼いたから食べな。ローズマリーのクッキーだよ」

 おばさんに声に、わたしは笑顔で応える。タカラと一緒に走っていき、庭の手作りのテーブルの近くに立ったおばさんの元に行く。おばさんはいつもにこにこと元気だ。クッキーの盛られた白い皿を差し出し、わたしはそこからクッキーを取って口に運ぶ。

「おいしーい」

 わたしの笑みに、おばさんはますますにこにこする。

「瀬名くんは食べないの?」

「おれはいい」

 瀬名くんのそっけない言葉に、おばさんが「さっきたらふく食べたもんねえ」といたずらっぽく言う。瀬名くんは、ふん、と顔をそむける。わたしは構わずクッキーをかじる。普通のクッキーよりもハーブが香る、不思議な香りのクッキーだ。

「昨日来てなかったね。どうしてた?」

 おばさんの言葉に、わたしはにこにこ笑う。ブルーグレーの手作りの椅子に座り、クッキーを堪能しながら答える。

「お父さんに会ってました」

 瀬名くんがちらりとこちらを見た。それからまたタカラとじゃれ始めた。おばさんは少し心配そうな顔になり、

「そう。楽しかった?」

 と訊く。わたしは笑いながら、

「楽しかったですよ。お父さんが新しいイタリアンのお店に連れて言ってくれて、帰りには服とかアクセサリーとか文房具とかを買ってくれて……。何か、何か……」

 瀬名くんが近づいてきた。わたしは自分の顔がどうなっているのか、やっと気づいた。わたしは顔をくしゃくしゃにして泣いていた。

「お父さん、上の空だった。物を買ってくれるのもお詫びみたいだった。かなり遅れて来たし、スマホばっかりいじってたし、あ、あ、新しい奥さんに夢中で、新しい子供ができたからもうわたしのことはいらないのかなと思ったんです」

「新しい子供?」

 おばさんが心配そうに訊く。

「別れる前に教えてくれたんですけど、お父さんの新しい奥さんに子供ができたんです。その子ができたから、わたしはもう、い、いらないんじゃないかって」

「そんなことない!」

 瀬名くんがわたしの肩をぎゅっと握って叫んだ。

「そんなことないって、仲村! 新しい子供がいても仲村はお父さんの子供には違いないし、今はきっと色々、おれたちがわかんないことで仲村に構えないんだよ。だから、そう思うことなんかない!」

 わたしは泣きじゃくりながらも、瀬名くんの言葉に安心していた。ううーっとうめくと、瀬名くんの手を握って泣いた。

「仲村は何も悪くないよ。大人がごちゃごちゃやってるだけで、仲村は何にも悪いことしてない。だから悲しく思うことなんてないんだ。悲しくなったら、いつだってうちに来ていい」

「……うん、ありがとう」

 わたしはうなずき、ようやく瀬名くんから手を離した。瀬名くんはしばらくタカラを撫でていたが、

「もう夏休みも終わるな」

 とつぶやいた。

「でも、次のバラの季節も、その次の春も、夏も、秋も、冬も、いつだってうちに来ていいから」

「うん」

 おばさんがジュースを持ってきた。梅ジュースだ。氷がカラカラと鳴り、時々砕けるようなパチンという音を立てる。

「今年の梅ジュース、最初の一杯は美雨ちゃんにあげるね」

 笑顔のおばさんから受け取り、一口飲む。今年最初に飲んだときとは全く違う味。梅ジュースも違えば、わたしの気分も違う。わたしは今、長いトンネルの中で、ようやく出口を見つけた気分。

 夏休みが終わる。それは清々しいような、甘いような、すっぱいような、まるで梅ジュースのような香り高い気分だった。

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