第3話 おばさんの庭

「あ、来たな」

 おばさんはわたしを見てにこっと笑った。わたしは虚ろな顔で帰り道を歩いていて、気づけばおばさんの庭をじっと見つめてしまっていたのだ。おばさんは鉄の柵から錠を外して、わたしを招いた。犬が大きな口を開けて笑って、わたしを見ていた。まるで歓迎されているような気になる。

「タカラ、悪さするんじゃないよ」

 おばさんは犬の頭にそっと触れる。犬はきょとんとおばさんを見て、またわたしを見て笑う。おばさんはわたしに笑いかけ、手招きをした。

「おいで。いいもん飲ませてあげる」

 おばさんが悪い人で、飲まされるのが毒だったらどうしよう。そう考えたけれど、もうどうだっていい気分だったから、ついて行った。タカラと呼ばれていた犬もついてきた。植物がたくさんあった。そのどれもがきれいだった。初夏は真夏に向かっていて、日差しは暑い。可憐な紫色の花を咲かせた植物が小さな花壇にたくさんあって、それはラベンダーの一種なんだとおばさんは言った。

「本当のラベンダーは北海道でなきゃ育てるのは難しくてね。本当のやつならもっと香るんだけど」

 ぎざぎざの葉っぱを触らせてもらって、言われた通り嗅いでみると、強い香りがした。とてもいい香り。お母さんが前につけていた香水や、芳香剤とはまた違う生の香り。

 わたしの表情を見て、おばさんはほっとしたように笑った。

「梅ジュース持ってくるね。今年最後のが、ちょうど二杯分あるから」

 おばさんはわたしを木陰のテーブルセットの椅子に座らせて、中に入った。真四角の木のテーブルに、木の椅子。ブルーグレーのペンキが塗られ、どうやら手作りらしい。ぶん、と蜂の羽音がして身をすくめた。植物がたくさんあるということは、虫もたくさんいるということだ。よく見ればバラの木には大きなクモが巣を張っている。はっはっはっ、とタカラは大きく息をしながら、わたしのそばに座ってわたしを見ている。犬、そんなに得意じゃないんだけどな、と思いながらも、この犬は優しそうで、わたしに危害を加える気なんてこれっぽっちもないという気がした。

「タカラ」

 と試しに呼ぶと、タカラは、わふっと小さく返事をした。

「お待ちどおさま」

 おばさんが出て来た。手にはお盆を持っている。汗をかいた細いグラスには薄黄色の透明な飲み物。氷がたっぷり入っている。

「ごめんね、外だから虫がたくさんいるでしょう。招待して一日目で家の中に入れたら、親御さんにご心配をおかけすると思ってね」

 わたしは首を振った。そしておばさんがわたしのために用意してくれたジュースが目の前に置かれると、おばさんに言われるまま「乾杯」をし、一口飲んだ。梅の香り。そして酸味と甘みと梅特有の鼻をつつく味が口の中に広がった。

「おいしい?」

「おいしい、です」

 おばさんも飲んだ。おいしそうにごくごくと一気飲みした。

「これでラストか。また作らなきゃ」

「手作りなんですか?」

 驚いて訊く。こんなにおいしい飲み物を、手作りできるなんて。おばさんは嬉しそうに笑った。

「まだ青い梅を、氷砂糖と一緒に入れとくの。時々混ぜて。そしたら完成だよ。あとは水やお湯や炭酸水で割って飲むの。わたしは炭酸水が好きかな」

 にこにこ、にこにこ。おばさんはずっと笑っている。わたしは目を丸くする。おばさんは、わたしが見たことのないタイプの人だった。こんなによく笑い、幸せそうにしている大人に、わたしは会ったことがなかった。

「バラ、きれいでしょ」

「はい」

 わたしは素直にうなずく。おばさんはにこにこ笑う。

「あのミニバラも、大輪の黄色いバラも、フェンスに絡まるツタバラも、モッコウバラも、全部手入れしてるんだ。わたしの自慢だよ」

「いいな。うち庭がなくて」

 以前住んでいたマンションにも庭はなかった。そう思ってしょんぼりしていると、おばさんは顔を輝かせて、

「ならうちの植物の世話をしに来たら?」

 と言った。驚いて目を見開く。

「手が足りないんだよねー。うちの息子も手伝ってはくれるんだけど、遊ぶのに忙しいらしくて」

「子供いるんですか」

「うん。十二歳。六年生」

 ぞっとした。おばさんの家の表札に書かれていた苗字、あれは……。

「ただいま! あれっ、仲村?」

 誰かが乱暴に柵を開いて入ってきて、大きな声でわたしの名前を呼んだ。振り向かなくてもわかる。瀬名くんだ。タカラが尻尾を振って大慌てで迎えに行っていた。瀬名くんはタカラを軽く撫でて、わたしをじっと見つめた。

「あれ? 知ってる子?」

 おばさんが瀬名くんに訊く。瀬名くんはこともなげに「クラスメイト。転校生」と返した。おばさんは何度もうなずき、「あっそう!」と納得した様子だ。

「あーっ、おれの梅ジュース飲んじゃったの?」

 瀬名くんがわたしの飲みかけのグラスを見て不満気な声を上げる。おばさんは、

「もうない。また漬ければいいでしょ」

 とそっけない。これがおばさんの母としての顔のようだ。

「おれの今日の楽しみがー!」

「あんたの楽しみはたくさんあるでしょ。今日も遊びに行くんでしょ、ごっちゃんち」

「ううん。ごっちゃんはヤスと一緒にゲームだって。おれゲームやんないし」

「じゃあ手入れ手伝って」

「自分でやれよお。自分が勝手に作った庭だろ」

「文句言うなら今日のメニュー、ハンバーグから煮魚に変えるよ!」

 おばさんの一言に瀬名くんは口をピタッとつぐんだ。わたしはちょっと面白くなって口の端が笑ってしまった。瀬名くんもそれに気づいて、「あ、笑った」とつぶやく。

「誰だって笑うでしょ、失礼な」

 おばさんの一言に、瀬名くんは「だって仲村いつも無表情だよ」と言う。わたしは笑うのをやめてしまった。おばさんが「いい加減にしなさい」と言うと、瀬名くんは唇を尖らせて何か言おうとした。タカラがきょとんとわたしたちを見ている。

「もう! お母さんコップ片づけるから手入れしといてね!」

 おばさんが玄関の中に入ると、瀬名くんは唇を尖らせたまま玄関横の鉄のキャビネットをギイギイ鳴らして開き、大きなはさみを取り出した。それからラベンダーの花壇に向かい、花の穂を一つ一つ選んで切っていく。

「古くなった花を切り落としたらまた花が生えてくるんだ」

 訊いてもいないのに瀬名くんは説明する。花穂を切るたびに強いラベンダーの香りがする。

「バラとかの木の枝とかは任されてなくてさ。こういう古い花を切ったり、細い枝を切ったり、枯れた葉っぱを取ったりはするように言われてる」

「何で木の枝は駄目なの?」

 わたしは思わず質問してしまった。興味津々だった。瀬名くんはにこっと笑い、

「太い枝は、強い剪定ばさみが必要でさ、そういうはさみって簡単に人間の指とか切り落とせちゃうわけ。だから駄目だってさ」

「のこぎりは?」

「すごく太い枝には使うけど、それも中学に入るまではお預けだって」

「瀬名くんはやりたいの? 庭の仕事……」

 瀬名くんの顔色がさっと変わった。何だか怒ったような顔だ。わたしは思いがけない変貌ぶりに驚いて、瀬名くんをじっと見た。瀬名くんは吐き捨てるように言った。

「女みたいって言いたいんだろ。植物の世話するのが好きだから」

「そんなことないよ」

 わたしは純粋にそんなことはないと思っていた。むしろ植物をこんなにきちんと世話できる瀬名くんをすごいと思っていた。

「学校でさあ」

 瀬名くんは真顔のままわたしに言った。

「言うなよ。おれが家で植物の手入れしてるって。バラ男、とか言うなよな」

 言うわけないのに。わたしはもやもやして気分でうなずいた。しばらく瀬名くんは無言でラベンダーの花穂を切っていたが、それをまとめて、ついでに茶色くなった葉を集めて庭の隅の箱のところに持って行った。それからふたを開けて、顔をしかめてぽいっとそれらを中に入れた。タカラはどこに行くにも瀬名くんについていく。おばさんといるときより反応がいい。何だかうらやましい。

「くっせーくっせー」

「あれ何?」

「母ちゃんの肥料製造箱。生ごみとか葉っぱとか古い花とか入れて、腐らせる。で、充分熟したら肥料として庭に使う」

「すごいね」

「何にもすごくないよ。臭いだけ」

 わたしは瀬名くんの機嫌が戻っていることにほっとしていた。瀬名くんはいつものようににこにこ笑って、力強くしゃべっていた。

「そういえばさ、仲村」

「何?」

 わたしは瀬名くんにすっかり打ち解けた気分だった。だからうっかり笑顔を見せて、うっかり返事をしてしまったのだ。

「お前んちの父ちゃんと母ちゃん、離婚したってホント?」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。瀬名くんは不思議そうな顔をしていて、からかうような、憐れむような顔をしているわけではなかったし、声だって普通だったからだ。けれど、その言葉は体中が痛むくらい辛いものだった。

 わたしは気づけば泣いていた。声を上げて泣きじゃくって、しゃがんで、また泣きじゃくって……。瀬名くんは大慌てでわたしに声をかけるが、わたしはその手を振り払った。

「どうしたの?」

 おばさんが慌てた様子で走ってきた。瀬名くんは無言で、わたしもただ泣き続けた。おばさんがわたしの背中を撫でてくれた。

「ごめん」

 瀬名くんがつぶやいた。

「帰ります。お母さんから用事を頼まれてるから」

 わたしは涙声で言い、立ち上がった。涙で顔がぐしゃぐしゃだ。おばさんとタカラは小道をわたしと共に歩き、鉄の柵まで送ってくれた。

「梅ジュース、ごちそうさまでした」

 わたしは精一杯お礼を言い、家路についた。瀬名くんちのフェンスの白いツタバラは相変わらずきれいだった。

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