第4話 瀬名くんなんて大嫌い

 それからしばらく、わたしは瀬名くんと話さなかったし、瀬名くんちの庭の前で立ち止まったりもしなかった。ただただ、家と小学校を往復し、家では家事をやり、学校では一人でぼんやり過ごしていた。

 瀬名くんは相変わらずクラスでは好かれていて、後藤くんや北島くんとふざけ、他のクラスメイトを巻き込んで笑わせ、と賑やかな日常を過ごしていた。わたしは瀬名くんなんて大嫌いだった。信用できると思ったのに。

 あのあと、瀬名くんは何か言いたげにわたしの顔を見たり口を開いたりしたけれど、わたしは全部無視した。謝ったって、許さない。あの日、わたしの噂話をして憐れんでいた女の子たちよりも残酷なことを、瀬名くんはしたのだ。

 小学校の通学路は、瀬名くんちの前を通るから嫌だった。もっと別のルートはないものかと、わたしは探り出した。するとうちのアパートには裏道から入れることがわかり、そこを歩くことに決めた。車が一台通れるくらいの狭い裏道にはシャッターの下りたタバコ屋や古い民家が立ち並んでいた。あんまりいい道ではなさそうだけれど、仕方がない。わたしはお父さんに買ってもらったラベンダー色のランドセルをお守りに、毎日そこを歩いた。

 ある日のことだった。誰もいないタバコ屋の前に黒いTシャツの中年の男がいて、わたしを見ていた。変な目つきだった。何だか、ぎらぎらして、それでいて虚ろなような。男はしばらくタバコを吸い、嫌な臭いを吐き、わたしが横を通り過ぎると、歩き出した。

 胸がどきどきした。男はわたしの後をつけていた。そっと見ると、あの虚ろな目でわたしを見て、さらに近づいてくる。

「一人で帰ってるの?」

 男は妙に優しい声でわたしに言った。わたしは無視して速足で歩いた。

「何で無視するんだよ」「声かけただけだろ」「そこの小学校の子?」「かわいいね」と、男は次々に声をかけてきた。お巡りさんか、普通の大人の人がいないかな、と思っても誰もいない。怖くて仕方がなかった。せめて、家まで行けたら……。

「一緒に家まで行こうか?」

 男は言った。それを聞いて、駄目だ、と思った。家を知られたら、家に来られてしまう。逃げることができても、これからずっと来られてしまうかもしれない。

 わたしは更に足を速めた。男のスニーカーの音も速くなる。いつもとは違う道を突っ切って、出たのは――いつもの通学路だった。瀬名くんの家の近く。おばさんに助けを求めよう。ちらっと見ると、男はにやにや笑いながらわたしを見ていた。

「おーい、仲村!」

 誰かが後ろからわたしに声をかけた。ついてきた男ではない。男はぎょっとして瀬名くんを見ていた。瀬名くんはタカラを連れていた。散歩の途中だったのだろう。

「おれんちに来たんだろ。一緒に行こうぜ」

 男は大慌てで元の道を引き返した。ねずみみたいに素早く。わたしはへなへなとしゃがみこんだ。

「大丈夫か?」

 瀬名くんはわたしのところに駆けつけてきて、しゃがんで訊いてくれた。声は切羽詰まっていた。多分何が起こっていたのかわかっていたのだろう。

 わたしはタカラに抱きついた。瀬名くんに抱きつくことはできなかったから。タカラは臭かったけれど、お日さまの匂いもして、温かくて、ごつごつして、生き物の優しさの塊のようだった。じっとしてくれて、嫌がらなかった。わたしの気持ちをわかっているかのようだった。涙がぽろぽろ落ちてきた。ひっく、ひっく、としゃくりあげるわたしに、瀬名くんは、「ほら、立って」と優しく声をかけ、わたしが立つと、庭に入れてくれた。

「どうしたの?」

 と驚くおばさんに、瀬名くんは、

「あとで説明するからシソジュース持ってきてやって! キンキンに冷たくしたやつ!」

 と叫んだ。


     *


 結局おばさんが警察に届けてくれ、お母さんは次の日菓子折りを持ってわたしを連れて瀬名くんちにお礼に行った。おばさんはカラカラ笑って遠慮しながら受け取ってくれたが、お母さんはあんまり笑っていなかった。

 帰るとき、お母さんは瀬名くんちの庭を見渡し、「素敵なお庭ね」と無表情に言った。

「お母さん、学校から家に帰る前に、瀬名くんちでお花の世話手伝ってもいい?」

 わたしが訊くと、お母さんは少し笑い、「ご迷惑でしょ」と言う。

「おばさんが、手伝ってほしいって」

 と言うと、お母さんは何だか読み取れない寂しい顔をして、

「いいよ。お母さんも今回の件で美雨のことが心配になっちゃったから」

 と答えた。嬉しかったけれど、何だかもやもやした。お母さんは何を考えてるんだろう?

「それにしても、優雅な暮らし」

 お母さんはもう一度庭を見渡した。口元は微笑んでいた。でも目は笑っていなかった。


     *


「仲村、花ばさみ取って」

「ん」

「ありがと」

 瀬名くんが枯れてしまった赤いバラの花を切り落として地面に置いた。もうすぐ夏休みだ。あれからすっかり瀬名くんちの庭に入り浸りになったわたしは、ちょくちょく瀬名くんと一緒に庭の手入れをしている。タカラとも一緒に。タカラはいつも庭をうろうろしている。

 瀬名くんはやっぱり無神経で、時々腹の立つようなことをズバッと言うけれど、あの日以来わたしのことを気遣ってか、友達と遊ぶのを少し減らしてわたしと一緒に庭の世話を頻繁にするようにしているようだ。面倒見がいいからクラスではあんなに人気があるんだな、と今更ながらにわかった。

「美雨ちゃん、こっちおいで」

 おばさんが声をかけてくれる。瀬名くんの横から飛び出してひんやりした玄関に入ると、待っていたおばさんはキッチンに連れて行ってくれた。たくさん物があるけれど、味わいのあるキッチン。料理やお菓子の本が壁の棚に並び、冷蔵庫にはメモがたくさんマグネットで貼られている。紅茶の缶やハーブの入った袋に、スパイスの瓶と野菜、それにたくさんの漬け物の大きな瓶。おばさんのキッチンはとても魅力的だ。

 おばさんは一つの梅酒瓶を指さし、「新しい梅ジュース漬けてるよ」と笑った。わたしは嬉しくなる。近づいてよく見るとまだ青梅と氷砂糖が混ざったように入っているだけで、梅のエキスは出ていない。まだまだこれからのようだ。

「明日、クッキー焼こうか。おいしいやつ」

 おばさんがにこにこ笑う。わたしは顔を輝かせて「はい」と笑う。おばさんはこうしてわたしと瀬名くんのおやつを一緒に作って振舞ってくれる。

「友也の好きなローズマリーのクッキーにしようかな」

「瀬名くん、ローズマリーのクッキーが好きなんですか?」

「うん。クッキーに入れたローズマリーが香って好きなんだって。わたしも大好き」

 食べたことのないクッキーだ。まだできてもいないのに食べたような気になって、ローズマリーのクッキーというアイディアがすっかり気に入ってしまった。

「美雨ちゃんは夏休みどうするの?」

 おばさんが話を変える。途端に憂鬱になる。

「田舎のおばあちゃんちに行ったり、お父さんに会ったりはすると思うけど、多分ちょっとだけだろうな……」

 お母さんは意地になっていた。お父さんがわたしに関わるのも、おばあちゃんたちにお節介を焼かれるのも嫌がっていた。だから以前の夏休みのようには楽しくなることはないだろう。

「じゃあ、夏休みの間も時々うちにおいで」

 おばさんはにこにこ笑う。

「でも、迷惑じゃないですか? 今だって毎日来てるのに」

「そんなことないよ! 夏は鉢植えの水やりとか大変なんだから。たくさん手があると嬉しい」

 おばさんは親切だ。本当はわたしがいなくても瀬名くんがいればどうにかなるんだろうけれど……。

「はい。それなら時々来ます」

 おばさんはにっこり笑った。

「次のバラの季節も楽しみだし」

 暑くなり、薔薇はほとんど咲かなくなっていた。秋になるとまた一斉に咲き出すというので、わたしは楽しみにしていたのだ。

「秋のバラもいいよー。初夏のバラとは違うの」

 おばさんがうっとりと笑う。わたしはそんなおばさんの様子に、一層期待した。

 秋のバラが楽しみだ。夏休みも。

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