第2話 わたしの秘密

「ありがとう。お母さんくたくただから、美雨が手伝ってくれて助かる」

 お母さんは疲れ切った顔でわたしに微笑みかけた。髪が少しざんばらになっている。よほど忙しかったのだろう。お母さんの細い顔はやつれて見える。お皿を洗ってふきんで拭いて、今朝干してあった洗濯物をたたんでプラスチックのタンスにしまっただけなのに、それがすごくありがたいことのように言う。確かに、わたしは以前ならこんなことしなかった。お母さんが何でもやってくれていたから。でも、わたしだってお母さんが大変なのはわかっている。だからついでに部屋の絨毯に粘着テープのコロコロをかけたし、ランドセルをちゃんとしまって宿題だってしておいたのだ。

「ごめんね。ご飯作る余裕ないから、今夜はこんなので」

 お母さんはお弁当屋さんのお弁当を買ってきていた。から揚げやエビフライの入った油の多いお弁当。以前なら絶対に食べなかったけど。

「うん。食べる」

 わたしは微笑んだ。

 プラスチックのお弁当の中身を口に運びながら、わたしはお母さんの顔をちらちら見る。お母さんは放心したまま食べている。仕事に就くのは八年ぶりだと言っていた。専業主婦をしていたから、新しい仕事に就くのは大変だと言っていた。そうやって見つかった仕事は介護施設の仕事で、お母さんは看護師の資格を持っていたからよかった、と嬉しそうに言っていた。それでも八年ぶりの仕事は辛いことが多いのだろう。

「お母さんは駄目だね。物覚えが悪い」

 お母さんがつぶやいた。

「明日も頑張らなくちゃ」

 わたしは最後のから揚げが喉につっかえるような気がした。


     *


 あのきれいな庭を眺めながら登下校するのが楽しみで、それだけが心の支えだった。あのおばさんは朝早くから庭に出て手入れをし、夕方も鉢植えに水をやっている。わたしはいつも気づかれないようにそっと見た。黒い髪をお団子にしたおばさんは、大きなじょうろを持ってよたよた歩き、鉢植えの土を触っては水をあげたりあげなかったりする。犬はおばさんにまとわりついたり、好き勝手な場所で匂いを嗅いだりしている。時々わたしに気づく。そういうとき、わたしは慌てて歩き出す。

 ある日、学校に着くと、瀬名くんがふざけてテレビの芸人の真似をして笑いを取っていた。瀬名くんは結構お調子者だ。みんなを笑わせ、楽しませるのが自分の使命みたいに、色んなことをする。

 でも、わたしは瀬名くんが苦手だ。最初に話しかけてきたことも理由だけれど、瀬名くんは「女のくせに」「男のくせに」とよく言って、人を馬鹿にするところがあるからだ。

 あるときクラスメイトの後藤くんが淡いピンク色のTシャツを着てきたことがあった。くすんだピンクで、きれいな色だったからわたしは「いい色だな」としか思わなかった。なのに瀬名くんは真っ先に立ち上がり、

「ごっちゃんピンク着てるのかよー! 女みてー!」

 と叫ぶのだ。後藤くんは真っ赤になってそのTシャツをぎゅっと握っていた。その日一日、後藤くんはうつむいたまま笑わなかった。何だ、いじめられるぞ、とわたしにほのめかしておきながら、いじめているのは自分じゃないか、と思ったものだ。


     *


「仲村、その頭天パ?」

 隣の席なので瀬名くんは時々わたしに声をかけてくる。というか、わたしに声をかけるクラスメイトといったら瀬名くんだけだ。

「うん」

 わたしは顔も見ずにうなずいた。わたしの髪が目立つのはわかっている。少し色が淡くてうねっているのだ。以前はお母さんがしょっちゅうとかしてきれいにしてくれていたものだけど、今は忙しいと言われて自分で結っている。耳の上で二つ結びにした髪が、不揃いでぼさぼさなのは承知の上だ。

「へー! すげー」

 わたしはじろりと瀬名くんをにらむ。何がすごいんだろう。わたしはこのうねった髪と毎日格闘するようになって、段々嫌いになってきているというのに。

「天パって珍しいよな。すげー」

 わたしは瀬名くんが鬱陶しくなって口をへの字にした。それを見た瀬名くんは、

「お前、友達ほしくないの?」

 と、さっきとは違うトーンで訊いてきた。わたしは「ほしくない」と答えた。多分真顔のまま。瀬名くんは、

「信じらんね」

 と立ち上がって男友達のところに走っていった。わたしはずっと黙っていた。涙がぽろっと落ちてきた。慌てて拭って、次の授業の準備を始めた。


     *


 バラって色々あるんだな、と思う。フェンスに絡まった白いバラは花びらが折れ曲がって尖ったような形になっているが、庭の中にあるピンクのバラは丸っこくてかわいい。どれも個性がある。小さい花や大きい花。木自体の大きさも違う。大きいものは大人の背丈くらいある。

 そうやって比べながら眺めていたら、おばさんに見つかってしまった。

「あ、あなたよく見てくれてるよね」

 おばさんはにこにこ笑っていた。わたしは逃げる準備をしていたが、おばさんがけらけら笑いながら「逃げなくていいじゃない」と先に言うので動けなくなってしまった。おばさんが手招きする。

「入ってきていいよ。じっくり見ていい。お花好きなんでしょ?」

「ええと」

「知らない人が怖い? 仕方ないか」

「いいえ。あの、お母さんに用事を頼まれてるので、すいません、帰ります」

「そう?」

 おばさんは少し残念そうに笑った。わたしはドキドキしながら家に向かった。おばさんと話してしまった。ずっと話したかったおばさんと!


     *


 五月の末の一日は最悪だった。

「仲村さんってぇ、お父さんとお母さん離婚してるんだって!」

「えー、かわいそうー」

「だからいつも暗いのかな」

「そうかもー。だからわたしたちも優しくしてあげなくちゃいけないって、ママが言ってた!」

「えー、でも仲村さん、わたしたちのこと馬鹿にしてるよね」

「前はピアノとバレエを習ってて、お嬢様だったんだって。だからじゃない?」

「えー、今は?」

「角のとこのアパートにお母さんと住んでるんだって!」

「えっ、あのボロアパート? うっわー、かわいそー」

「そうそう、かわいそうだから優しくしてあげようね」

 教室に入った途端、クラスメイトたちが輪になってわたしの噂話をしているのでそれ以上動けなくなった。メンバーの一人が「あっ」という顔でわたしを見て、他のメンバーをつつく、彼女たちは大慌てでわたしを見、「仲村さん、おはよう」といつもはしない挨拶をした。くるりと振り向いて教室を飛び出そうとしたら、誰かにぶつかった。

「いってー! 気をつけろよ仲村」

 瀬名くんだった。瀬名くんはわたしが教室を出ようとしていることに全く気づかずに、ぐいぐいとわたしを押して自分も中に入ろうとする。教室の異様な空気に、首をかしげている。そして仲のいい男友達を見ると笑って、

「遅刻寸前! 間に合ってよかったー」

 と自分の席に向かっていった。わたしは教室の入口に立ち尽くしていたが、尾崎先生が来てしまったので席に着かざるを得なくなった。先生は不思議そうな顔で教室を見渡し、

「では、朝の会を始めます」

 と言った。


      *


 わたしの両親は四月に離婚していた。お父さんは医者で、にこにこした普通のおじさんだった。仕事を終えると、「あー、疲れた」と玄関で大の字になって、わたしを呼んで「ただいま」と笑う優しい人だった。わたしはお父さんが大好きだった。お母さんは看護師だったけれど、わたしが幼稚園に入る前に仕事を辞めて、専業主婦になった人だった。いつも洗剤の香りがする人だった。微笑んで、料理をして、洗濯をして……。わたしがバレエやピアノの教室に通うのに送り迎えをしてくれた。忙しいお父さんは滅多にわたしと遊んだりできなかったけど、お母さんとは仲良くやっていたはずだった。

 全然気づかなかった。お父さんに恋人ができていたなんて。

 お父さんはその人と結婚すると言った。お母さんは半狂乱になった。お父さんとお母さんはわたしの見たことがない顔で喧嘩をした。毎日。わたしはそういうとき、ずっと耳を塞いで自分の部屋の隅でうずくまっていた。結局お父さんとお母さんは離婚して、わたしはお母さんに育てられることになった。わたしの養育費は一応支払われているのだという。でも、お母さんはまた仕事を始めなければならなかった。そうしなければ生きていけないから。

 そんな状況でバレエやピアノを続ける余裕なんてなかった。小学校も変わらないわけにはいかなかった。お母さんの手の込んだ料理を食べたいなんて言える状況じゃなかった。

 それでもわたしは元の生活に戻りたい。バレエ教室に通う友達とおしゃべりをし、お父さんとお母さんが仲良くしていたあのころに。わたしが幸せだったあのころに。

 でもそんなことはできないのだ。

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