瀬名くんちのバラ
酒田青
第1話 初めての学校
お母さんが帰ってしまったので、もうすでに憂鬱だ。初めての学校。前にいた学校より掃除が行き届いていない。きっと掃除の時間はみんなサボリ魔なのだ。尾崎先生と一緒に長い廊下をてくてく。先生はわたしに色々声をかけるが、わたしは「はい」とか「わかりました」としか答えない。段々気づまりになってきたらしい先生は、無言が増えていく。わたしも先生も、気まずい。そう思っていたら、先生が斜め前を指さした。
「ほら、一番奥の四組が仲村さんのクラスだよ。にぎやかでいいクラスなんだよ。みんなと仲良くしてね」
最後の一言は、わたしが暗いから溶け込めないだろうと思っているから出た言葉だと思った。
*
お母さんと一緒に小学校の玄関を上がって、応接間に案内された。
「うちの美雨は内気で大人しくて……」
と言うお母さんに、初めて会う尾崎先生は、
「わたしも美雨さんがクラスに溶け込めるよう気をつけますので」
と言った。わたしはずーんと気持ちが沈む気がした。前の小学校でも友達は少なかった。それでも仲良しの子は何人かいたのだ。文房具を見せ合ったり、贈り合ったり、他のみんなには内緒の交換日記をしたり。同じバレエ教室に通う子ばかりだった。皆おしゃれで、食べるものにも気を遣っていた。そういう子はわたしたちしかいなかったから、自然とクラスで固まっていたのだ。でも、もうそういう生活ともさよならだ。わたしはもうあの小学校から転校してしまったし、新しい小学校で新しい友達を作るしかないのだ。
「きっと、うまく行くよ。ね、仲村さん」
中年の男の先生である尾崎先生は、深いしわの刻まれた四角い顔を、柔らかく微笑ませてわたしに向けた。わたしは無表情のままだった。お母さんは心配そうにわたしを見、
「本当に、よろしくお願いします」
と言った。そして仕事に向かっていった。お母さんにとっても初めての仕事だ。お母さんだって不安なんだ。でも、とわたしは思う。お母さんと離れたくなかったな。
それからわたしは尾崎先生と一緒に、初めて行く教室に向かったのだ。
*
教室に入ると、三十四人のクラスメイトたちは興味津々に目を見張ってわたしを見ていた。女の子たちはひそひそしゃべっていて、男の子たちはちょっと笑っている子もいる。嫌な感じ。
「仲村美雨です。初めまして」
それだけ言うと、わたしは黙った。先生がわたしを見て、続きがないのを確認すると、
「拍手」
と笑った。ぱらぱらと、クラスメイトたちは手を叩いた。お互いの顔を見ながら。
「感じわる」
と女の子がつぶやいたのが聞こえた。
席は窓際だ。一番後ろの、一番隅っこ。居心地はよくないけれど、真ん中にいるよりはましだ。朝の会が始まって、先生が色々なことを言う。全部わからないことばかりだ。わたしはここに来るのが初めてだから、昨日までのこのクラスのことやこの学校の児童のことを言われても、わかるわけがない。頬杖を突いて窓の外を眺めた。五月の初めとは思えないほど空はどんよりと暗く、今にも雨が降りそうだった。
「お前さあ、そんなんじゃ嫌われるぞ」
五時間目が終わったとき、急に男の子の声が聞こえた。振り向くと、隣の席の男子だった。身長はわたしと同じくらいだけど、多分わたしのほうが高い。眉が太くて、目が大きい。あんまりかっこよくない男子だ。素朴、という言葉がよく似合う。わたしは教室に着いてから初めて言葉を発した。給食の時間ですら無言だったのだけど。
「どうして?」
男子は、面食らったようにわたしを見た。この子は多分、瀬名友也だ。クラスメイトたちから「瀬名くん」だとか「友也」だとか言われていたから。人気者らしい。別にうらやましいとも思わないけど。
「あのさあ、馬鹿にしてるみたいに見えるんだよ。しゃべんないし、笑わないし」
「だから?」
「嫌われてもいいのかよ」
わたしはしばらく考えた。瀬名くんの言ってることはよくわかる。子供の世界は残酷だ。いじめられるぞ、とか、仲間外れにされるぞ、とか言っているのだろう。
わたしは答えた。
「別に、いい」
瀬名くんは黙った。それから唇を尖らせて、誰か友達のところに歩いて行った。きっとわたしの悪口でも言うのだろう。
それでも、このクラスで誰かと仲良くなんかしたくなかった。わたしは前の小学校に戻りたかった。あのころの友達と、くすくす笑ったり、わいわい話したりしたかった。お父さんとだって……。
そう考えて、わたしは机に突っ伏した。
*
天気はよくなったけれど、気分は晴れない。誰もわたしに一緒に帰ろうとは言わなかった。何人かは寄り道をするみたいだったけれど、わたしは真っ直ぐに家に向かう。お母さんが、お皿を洗って、洗濯物をたたんでね、と言っていたし、宿題だってあったから。学校の授業は思ったより簡単じゃなかったし、尾崎先生の教え方は独特で、なかなかなじめない。自分で頑張らないと、取り残されることは一目瞭然だった。
小さな子も大きな子も、みんな家に向かっている。もしくは学童に行くらしい。みんな友達と一緒にいる。この中の誰かが変な人に誘拐されるとしたら、わたしだな、と思う。一人ぼっちの子は狙われやすいから気をつけなさいとお母さんが言っていた。
通学路は車通りがそんなになくて、住宅街の中にずっと続いている。わたしの家はそこから外れたアパートにある。小さな部屋で、あまり帰る気にならないけれど、閉じこもれるから学校よりは好きだ。
住宅街にあるのは白くて四角い家、レンガ造り風の家、和風の家。どれも立派だ。どこも庭つきで、花が植えてあったり芝生が広がっていたりする。わたしは花が好きなので、オレンジ色のポピーが花壇に植わっているのを低い柵越しにじっと眺めたりする。庭がある家がよかったな、と唐突に思う。
歩くうちに色んな植物が庭に植わっていることに気づく。桜の木は若葉になって、黄緑色の葉っぱが太陽に透けてきれいだ。通学路のアスファルトの隙間から生えるタンポポだって健気だし、生垣のツバキも真緑にてかてかと光って力強い。お母さんと学校に向かうときには気づかなかった。通学路にある家にはたくさんの植物がある。
家に向かう角の少し手前でわたしは足を止めた。そこはフェンスに囲まれた庭だった。真っ白なバラの花が、フェンスに咲いていた。一つや二つじゃなくて、たくさん。ビロードのような上品で柔らかな手触りを思わせる花びらが、幾重にも重なっていた。ちょっと暑いからか、素晴らしい香りがしていた。嗅いだことのない、柔軟剤のバラの香りとは全然違う香り。満開の、おしべとめしべが見えるバラ、その手前の花びらが重なっているだけに見える一番美しい薔薇、つぼみ、よく見れば花びらが見えないくらいの小さなつぼみもある。
庭の中も植物でいっぱいのようだった。緑色が一面に広がり、その中にこのフェンスのバラとは違うバラの木もたくさんあった。バラはピンクに黄色に深紅。それ以外にも色々な植物がある。花壇や鉢植えがあり、それぞれに違う植物が植わっている。ベージュの壁の家からはレンガで囲んだ小道が続く。わたしがいる、黒い鉄の柵のほうに向かっている。
ひょこっと、大きな犬が木の陰から顔を出してわたしを見た。真っ黒でつやつやの毛の、ラブラドールレトリバー。笑顔でわたしを見ている。目が合ったまま、逸らせない。犬はとっとっとっ、と歩いてくると、間近でわたしの顔を見た。人懐っこい犬だ。黒く光るつぶらな目はかわいい。でも、わたしはペットを飼ったことがなくて、大きな犬に少し怯えていた。犬は、わふっ、と小さく吠えた。わたしは一歩後ずさった。
「タカラ、どうしたのー? 誰かいるの?」
と、庭の陰からおばさんがひょっこり顔を出した。丸顔でちょっと太った優しい顔のおばさんだ。
「あらあ、こんにちは」
おばさんはにこにこ笑いながらわたしに声をかけた。わたしは大慌てで走って逃げた。
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