17 巨人

 窓からはかすかな明かり。

 いつまでも荒々しくかき鳴らされる楽器のような風。

 部屋を出る。急いで家を飛び出して、馬小屋へ向かう。空には沈みかけの月が残っていて、白み始めた空の端が見える。明け方であるようだ。


 ネルは馬を荷馬車につなごうとしていた。荒野へ向かおうと思ったのだ。しかし馬は怯え切っていて到底ネル一人ではうまく連れていけない。


 足音が駆けてきたのはこの時である。


「何しているんだ!」


 ルードの声だった。ネルは叫び返す。


「ルード、馬を出して! 荒野に行かないといけない!」

「馬鹿を言うな、危ないぞ」


 ルードは間髪入れずに言って、ネルを無理に家へ引き戻そうとした。が、その手は振り払われる。


「わかってるんでしょ、ルードも! 何かおかしいって! この頃ずっとおかしかったのを知ってるでしょ、穴も、ロッヒも! 今、向こうで何かが起こってるのよ!」

「だからって、危険をおかす必要は……」

「ロッヒはどうなの? ロッヒがいるじゃない。たった一人であんな場所に!」


 ルードは不意を突かれて、言葉を探しあぐねてしまう。風がまた鳴って二人の周りを巡る。何かに追い立てようとしている風。


「どうした、どうした? こんな所で何の喧嘩だ?」


 寝巻のままアレクが現れる。木の根に足を取られながらやってくる。


「アレク! ねえ、馬を出して。荒野に行きたいの」

「はあ? お前、死ぬ気か? 夜の荒野は危ないんだ。わかるだろ、夜の間に穴は生まれるんだよ」

「アレク、行こう」


 今度こそアレクは驚いた声を上げた。ルードは馬に近寄って綱を外し始める。


「おい、そんな……」

「わかっている。わかっているが、何かおかしい。何もわからないのに、このまま待っているのは気持ちが悪いだけだ。それなら、今行けば何かがわかるなら、行くべきだと私は思う。それに、あっちにはロッヒもいて心配だ」


 馬が小屋を離れて荷馬車へと連れられる。どうにか荷馬車を引けるように準備する事が出来た。ネルは不要な荷物を下ろして乗り込んだ。


「お前ら、大馬鹿だろ……」


 アレクは荒れ狂う天を仰いだ。あまりの馬鹿馬鹿しさにさすがの彼も呆れ果てたらしい。

 しかし、不意に彼は馬車へと近づき、御者台に足をかけた。


「ポルックスが見たら何て言うだろうな。あいつの事だから、すぐ行こうって言い出しただろうな」

「アレク」 ルードが呼びかける。

「わかってるよ、心の準備してたんだよ! よし、こうなりゃとことん行ってやる!」


 と、アレクは威勢よく手綱を握った。

 荷馬車は走り出す。唸る風の音を切り、真っ暗な森を月の明かりとランプの炎を頼りに進む。風が通り抜けるたびに木々は身体をねじり、歪ませ、全身で唸っているようだ。

 森を出て荒野に至ると、一気に風は激しさを増した。すぐに向きを変えたがる馬を何とかアレクが操って、竜巻のような大風に入り込んでいく。砂が口に入っておかしな感触がする。ルードがやめろと言っているが、ネルは構わずに馬車から身を乗り出し、何かを探す。気づかずに荷馬車ごと穴に落ちるかもしれない。風が全て飛ばしてしまうかもしれない。しかし、そんな事に構っていたらここまでやってきた意味が無いのだと信じて、ネルは怖がる心を押さえつけようとしていた。


 空の端から白い光が広がっていく。

 徐々に闇が薄まる荒野にネルは目を凝らした。明るくなってきたとはいえ、この状態で何か見つけられるのだろうか。


 そう思った一瞬である。

 ネルははっきりと捉えた。薄暗い中に佇む、人影。


「あっちに誰かいる!」

「ホントか? くそっ、まだよく見えねえな」


 砂嵐に抗ってアレクは手綱を取っていたが、とうとう馬は怖気付いてしまい、その場で頭をおろおろ振るだけで、進もうとしない。

 いてもたってもいられずにネルは荷馬車を飛び下りた。砂に足を取られてよろめくが、ぐっとこらえて立て直す。目を掌で覆って砂から守りながら走り出す。ちょうど追い風が吹きつけて、ネルは人影の方へ導かれるように進む。後ろから呼び声が聞こえる。おそらくルードだ。風に散らされて内容は聞き取れなかった。

 近づいてくる日の出。空は紫色の宝石を光に透かしたようで、徐々に明るくなっていく。空と、広がる大地の境界を闇が縁取る。その闇の中、岩とも砂の丘とも違う形の陰が、浮かび上がるようにして実体を示す。


 ロッヒであった。

 しかし、彼はいつもとまるで様子が違った。


 地面に膝と手をついて、頭を力なく垂れている。帽子はどこかへ飛んでいってしまったのだろうか。強風に揺れているのは、着ている服の端と、そして頭を覆う包帯。

 その様子はさながら、懺悔し、ひたすらに許しを請う罪人。


「ロッヒ!」


 ネルが思い切り叫ぶと、声が届いたのか、ロッヒは頭を上げた。

 その時、頭の包帯が風にあおられて吹き飛んだ。ネルは思わず息を呑んだ。


 こちらを見つめるロッヒの顔には、穴があった。

 左眼のあった場所に、黒い穴。しかし血は一滴も見つからない。眼窩をくりぬいて、闇を義眼として埋め込んだかのような暗い穴だ。


 よく見れば目だけではない。頭部にも、服の袖からのぞく二の腕にも、穴は容赦なく存在している。


 全身を穴に蝕まれた番人の姿。

 この土地を侵食する『穴』の病気は、人にまで感染するのだと、ネルはこの時思い知った。


 そして、ロッヒに残された右眼から、一筋の涙が頬を流れた。

 ネルは、一歩踏み出した。気力を振り絞って強い風と、穴への恐怖に立ち向かう。


 ロッヒのそばへたどり着き、両手を差し伸べた。

 彼は膝立ちになってネルを抱きしめた。


 ネルを取り巻く土と埃の匂い、頬が触れた時の感触。感じる暖かさ。

 悪夢から目覚めた後のように、強い印象は残るのに現実味を持たない。そんな存在であるロッヒが、確かに人間であり、息をして生きるものであるのだとネルは実感した。


「……怖い、怖い……怖いんだ。怖いよ……」


 ささやくほどの小さな声。だが、ごうごうと鳴る砂嵐に抗って、ネルの耳にまではっきり届く。その上、彼女の胸の奥にまで響き渡るほどの強い悲しみ、精神という精神を震わせて吐き出されるロッヒの言葉。


 穴だらけになったロッヒを恐ろしいと思う気持ちはとうに無くなっていた。

 この荒野で穴埋め人達に出会ってネルには見えるようになったのだ。誰しもが抱えている、目には見えない穴を。


 人は皆、失ったもの、恐れるもの、忘れたい事で心を穴だらけにしながら生きているのに、どうして目の前のこの人間だけを化け物のように扱わないといけないだろう?


 怖い、怖いと。ロッヒは何度も何度も繰り返し続けた。ネルを離せばその瞬間、足元の砂に飲み込まれてしまう、そう恐れているかのような力で抱きしめたまま。

 ネルは彼がどんな罪を犯したのか知らない。どんな思いでこの地に生き、番人として穴を見張り続けてきたのか、穴埋め人達をまとめていたのか知らない。

 そして今感じている怖さがどれほどかさえ、わからない。ネルには彼を救う事も、彼の罪を許す事も出来ない。

 だからネルは、人間であるロッヒをずっと抱き続けていた。それ以外に出来る事は考えられなかった。


 風は高鳴る。天が明るくなり、新しい光が二人の上にも落ちる。もうすぐ日が昇る。


 突然、ロッヒがネルを離した。ネルが驚いている間に彼は立ち上がっていた。

 ネルはロッヒを見上げて、愕然とした。


 ロッヒには既に顔が残っていなかった。口も鼻も目も飲み込んだ大きな穴、何も語る事の出来ない暗闇が、顔のあった場所に開いているだけだった。


「ロッヒ……!」


 ネルは手を差し出したが、ロッヒはまた一歩、ネルから離れるように後ずさった。

 轟音と共に、一段と強い風が吹きつけた。


「!」


 風の向こうで、ロッヒの姿が崩れていくのを見た。

 まるで砂の塊が風に削られるように、ロッヒの頭が端から細かな砂粒に変わり、荒野の砂に混ざって光る空へ吹き上げられる。同じように手の先も大量の砂と化し、肉体が消えていく。


 その光景は、ほんの一瞬しか見ている事が出来なかった。あまりの風の強さで目を開けていられなくなったのだ。

 目をつぶると、辺りにはただ、血管を血が物凄い勢いで流れるような風の音が響く。地面が揺れる。せき込むような土の匂い。ふと背中にぬくもりを感じた。誰かに抱え込まれる。


 混沌はどれぐらい続いたのか。ネルは必死で身を小さくして息を詰まらせていると、ある瞬間、音も揺れも何もかもが無くなっている事に気づいた。それから、自分を包み込んでいた温かさがそっと離れた。


「おい、大丈夫か、ネル」


 降ってきたのはアレクの声だ。何とか身を起こすと、ざらざらと全身から砂の音がした。見ればアレクも、赤毛を土まみれにしている。

 ネルの前には、ルードもいた。彼はその大きな体で、ネルとアレクを守る壁になっていたらしい。彼も二人と同じように砂を被って、地面に片膝をついたまま呆然と何かを見つめていた。その表情はまるで、天国の入口を見つけた罪深い囚人であるようだった。


 彼はどこかを見つめたまま言った。


「見ろ」


 ネルは彼と同じ方を向き、そして言葉を失った。


 朝焼けだ。

 先程まで明るい紫だった空が赤に輝いている。

 波打つ雲は、少しずつ納まっていく風に乗って流れていく。まだ姿を見せていない太陽の光が雲に降りかかって、まるで空を駆ける獅子のようだ。


 鮮やかな赤の空の下、荒野もまた天からの光と砂粒が混ざり合い、まだ大半は暗い影に覆われている地表のところどころで、目を焼くような輝きを跳ね返している。

 赤を帯びた金色の朝焼けと、沈黙する地表の闇の合間に、荒野から風で飛ばされた砂が舞っている。


 そして、砂の一群が、果てしなく大きな人間をかたどっていた。


 砂の巨人。

 見張り台をこえる高さの巨人が荒野に立っている。


 巨人はネル達に背中を向けて、北を目指して歩いていく。

 足音の代わりに、砂の吹き荒れる音が響き続ける。巨人の周りには、雲の獅子が護衛をするように流れていく。


 巨人の背中と、光と闇の世界、その全てをネルは小さな瞳の中に宿す。


 綺麗だ。綺麗で、綺麗過ぎて、寂しい。


 息をするのも苦しいほどの寂しさ。ネルは座り込んだまま身動きが取れない。

 巨人はゆっくりと、腕を振って胴体を揺さぶりながら遠ざかる。いつの間にか川を越えて、穴しか広がらない北の土地へと去っていった。


 砂の巨人と入れ替わるようにして、地平線から金色の太陽が現れる。

 新しい朝の陽光が広大な景色を余さず照らし出す。そのどこにもロッヒの姿が見当たらない事に、ネルは気づいていた。彼のいた場所には衣服の一片すらも残されていない。


 ただ日差しが、砂に埋もれかかった何かに跳ね返って、きらりと輝いた。

 ネルはそれに気づいて我に返った。足元に気をつけながら立ち上がった。


「お、おい、ネル!」 アレクが慌てて呼び止める。

「あっちに何かある!」


 ネルはその近くへと、砂の上に足跡を残しながら歩いた。

 砂に、ほんのわずかに埋もれていたのは、指輪だった。

 宝石もついていない金の指輪で、長い間磨かれていないらしく、くすんでしまっている。何かイニシャルのようなものが掘られているが読み取れない。

 手に取った時、まだ人のぬくもりが残っていた。


「指輪か?」


 ざくざくと土を踏みしめて近づいてきたアレクが言った。同様にルードも服から砂をはらいながら歩いてきて、ネルの隣に立つ。荒野に三人分の足跡と影。


「うん……ロッヒのだよ、多分」


 二人はネルから指輪を受け取って、注意深く眺めた。


「そういえば、ロッヒがしていたのはこんな指輪だった」

「知ってたのか?」 アレクがルードに尋ねた。

「ずっと前からだ。これ以外のものをつけているのは、見た事が無い」


 アレクは急に深々をため息をつくと、砂の巨人が消えた北を見て、つぶやく。


「こんな事ってあるのかよ……」


 いつしか風はぱったりと無くなり、荒野は息を止めたように静まり返っていた。

 いつも空気の中に僅かな風の音が溶け込んでいる荒野では考えられない事であった。


「後で、埋めるか? 墓と呼べるのかどうかわからないが」


 ルードの提案に、ネルもアレクも賛成した。


 ネル達は荷馬車へと戻ってから、番人の住んでいた岩場へ向かう事にした。他の穴埋め人達にこの事態を伝えるためである。いなくなってしまった番人の代わりに、旗を立てなければならない。


 三人とも夢からさめきれないような心地だった。何が起こったのか、うまく説明できる者はひとりもいない。やらなければならない事がもし無かったら、呆然と座り込んでいたかもしれない。


 岩場に着くと見張り台が立っていた。どう見ても傾いているが、あの嵐に耐えきったのである。しかしその傍にあるのは、屋根の半分が吹き飛び、崩れかかった木造の小屋であった。それを見た途端、アレクが忌々しげに叫んだ。


「ああ! 壊れてやがる! ぼろ小屋だったからな、あの嵐じゃ仕方ねえか……また建てるのかよ!」

「これってアレクが建てたの?」

「大勢でな。前の家があまりにも古くなったから建て直した。穴埋め人には大工がいねえんだよ。次に来る奴は大工が良いな……まあ、もう誰も来ないのが一番だけどな」


 ネルは小屋の中がどうなっているのか知りたいと思った。例え壊れていても、ロッヒがそこでどう生きていたのか知りたかったのである。傾いた入り口をくぐって踏み込む。


「危ないぞ」 ルードが言った。

「ちょっとだけ」


 小屋の中は既に風化が始まっていた。木片の残骸があちこちに折り重なっている。それと大量の土と砂。家具は少ししかない。簡素なベッドと、ろうそく立てのある机、本棚。屋根が無いため灯りをつけなくても全て見渡す事ができた。最も、ろうそくは飛ばされてしまったらしく一本も見当たらない。強風に荒らされた番人の部屋は、あまりにも空虚だった。

 しかし、本棚をのぞきこんだネルは驚いた。


「ルード、これ、聖典があるよ。お話の本もある」


 ネルの背丈より少し高いくらいの本棚。床に落ちている本と、残された本の数を考えると、もともとこの本棚にはぎっしりと本がおさめられていた事がわかる。どれも土ぼこりを被っているが、ネルの良く知る聖典や、有名な聖典の物語の本もあった。ネルを追って小屋に入ってきたルードが目を細めた。


「本当だ。……これは、科学の本だな。私も聞いた事がある名前だ。これは歴史書だ」

「ロッヒは、本が好きだったんだね」


 思い浮かべてみる。椅子かあるいは、ベッドに腰掛けて本を開くロッヒ。そばではろうそくの火が無音の中に瞬いている。彼がページをめくっている間に、荒野には闇に紛れて、暗い穴が静かに地表に現れる……。


 想像はそこまでだった。その光景はあまりにも寂しすぎて、胸に穴が開いてしまいそうだったからである。本には触れる事無く、小屋を出た。


 そして、旗を立てるため、三人で見張り台に上がった。

 ロッヒの見張り台は岩場の分だけ、森の見張り台よりも高い。長いはしごを登って上に着くと、森と荒野が三方に広がっている。荒野はただの、干からびた褐色の大地であるだけで、この数日に次々と現れた穴は交代で探しても見つからなかった。


「信じられない」 ルードがレンズをのぞきこんだままつぶやいた。

「あの巨人は、穴をどこへやったんだ?」


 穴が砂で埋まった、というより、穴そのものがどこかへ意思を持って去っていった、そんな考え方の方がしっくり来た。


 北には川を挟んで、その先までもがよく見える。川の向こうにも広がる荒野を、ネルは初めて見た。

 ただし、眺める限り一面に巨大な穴がいくつも放置された、まさに穴に息の根を止められた土地であった。南の、今は穴の無い土地と比べればよくわかる。北の土地から病気は川を越えてきて、土地を穿ち、そして番人をひとり飲み込んだ。


 ルードがネルの前を横切ると、旗の束を拾い上げる。旗は柱に引っかかって飛ばされずに済んでいた。


「白で問題無いよな?」

「こんな状況で白以外にあるかよ。ていうか、よく飛んでいってなかったな」 アレクが言った。

「それ、白っていうより、なんだか灰色だね」


 そのぼろぼろの旗は、風が無いせいではためかず、寂しげに咲いた白い花のように見えた。

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