15 朝

 光がさしている。

 淡い光が降ってきて、床に降り積もっている。まぶしいというには程遠いが、部屋中に行き届き、壁も、タンスも、たたんだひざ掛けも、ベッドも明るく照らす、白の光。


 その光は、ネルの目にも映っている。

 ベッドに横になっているネルの目に、光は静かに朝を告げる。


 暗い夜は、どこかへと消えていた。

 ネルは朝の訪れを知った瞬間、何かがいつもと違うと思った。はるか遠くを旅してきて、今この瞬間、それこそおとぎ話の魔法使いのように、この部屋にぽんと姿を現したような気がした。

 ネルは窓の方を見た。汚れやひびで白くなった窓は、朝日を受けて輝いている。窓からさす光は拡散して、床を広く照らしている。どこかから鳥の鳴き声が聞こえた気がした。


 ネルはしばらくぼうっと窓を眺めたまま、この不思議な感覚について思いをめぐらせた。

 何か夢を見ていた気がするが覚えていない。驚くほど心穏やかだ。忘れてしまった夢と一緒に、心に抱えていた重くつらい事までずっと遠くに行ってしまったようだった。


 例えば、昨日見たはずの白い光の形。

 確かに見た両親の幽霊が、どんな様子だったか、ネルは思い出せなくなっていた。


 ただ、二つの白い輝きはとても美しく、同時にひどく寂しかった事だけが、夜露のように記憶に残っている。ネルはその滴が零れ落ちないよう、そうっと床につま先を下ろした。

 リビングに行くと、ルードとアレクが既に朝食の準備をしていた。


「おはよう」


 すぐに、二人から心配そうなまなざしが飛んできた。


「ネル、何か具合の悪いところは無いか? 頭が痛いとかは?」

「無いよ。昨日よりずっと良い気分」

「おい、無理してんじゃねえだろうな?」

「ううん。私、何だか元気になれたみたい。不思議なんだけど」


 二人とも半信半疑のようだった。それからも体調を案じるやり取りが続いて、ネルの言葉に嘘が無いと二人は認めざるを得なくなる。

 ここにネルが来た時と同じように、二人はやはり深くを尋ねなかった。ただ、朝食の支度をする背中には、安堵の気配があらわれていた。


 ふとネルは、アレクの横顔を見て、言わなければならない事を一つ、思い出した。


「アレク。昨日、助けてくれてありがとう」


 アレクがネルを振り返る。不意をつかれたのか、目を丸くしている。


「森で私を追いかけて、助けてくれたでしょう。お礼、言い損なってたから。ありがとう」

「別に礼を言われるような事じゃねえ。お前、そのまま帰ってこなさそうだったから」

「そうね。ずっと追いかけていったままだったかも」


 アレクはネルから逃げるようにして、ポルックスを起こしに行った。


「あいつも、ネルの事を心配しているんだ。もう心配かけるんじゃないぞ。昨日は助けられたから、良かったものの」


 そうつぶやくルードに、ネルはごめんなさいと小さく謝った。


 突然、静かだった家に絶叫が響いた。


「ルード! 来てくれ、ルード! おい!」


 椅子の倒れる音。

 ルードは即座に駈け出していた。ポルックスの部屋の方へ。

ネルは唐突な声に驚いた硬直から抜け出すと、急いでルードに続いて行った。


 ポルックスの部屋に頭を突っ込んだが、無駄な事だった。すぐにアレクに引っ張り出される。


「お前は入るんじゃない!」


 アレクが叫ぶ。彼のこんな真剣な声をネルは初めて聞いた。

 肩を掴まれて部屋から引き離される。

 これと似た事が何度もあったわ、とネルは思う。荒野で一度、そして昨日の夜。アレクは急な事態の時だけはしっかりしてるな、とも思う。これらの思考全部が、ネルの眼前に広がったものから、必死で彼女を守ろうとしたむなしい思考だと、どこかでネルは気づいている。


 ネルが室内を見たのはほんの一瞬。

 しかもルードの身体に遮られて、全ては見えなかった。


 それなのにその光景は記憶に刻み込まれて、廊下に座り込んだネルの目の前に、否が応でも浮かんでくるのだ。


 部屋の真ん中に倒れる、人の形をしたもの。

 おびただしい赤で塗りつぶされたキャンバス。

 絵の具ではない。少し前までは命を持っていた、生々しい赤色が、朝の光に容赦なく照らし出されていた。


 彼は昨夜、一人で絵を描きながら命を絶ったのであった。自身の血で描かれた絵が、彼の最後の作品となってしまった。


 ポルックス、とネルは名を呼んだ。

 声にならないうめき声しか喉は発さなかった。

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