14 蝋燭
ネルが家に戻った時、ポルックスは既にルードが連れ帰っていた。
リビングで椅子にかけた彼は、蒼白な顔で黙り込んだままだ。見かけた幽霊なみの顔色の悪さである。
向かいに座るルードがこちらを見た。その苦い表情を見るに、ポルックスは帰ってきてからずっとこの調子のようだ。
真っ先に声を発したのは、ポルックスだった。
「いなくなったか?」
温度のない声でネルに尋ねてきた。普段の彼には見られない冷たさだった。
「どこかに行っちゃった」
「お前こそ何見たんだ。顔色が最悪だぞ? 大丈夫か?」
アレクが言うが、ポルックスはやはり青ざめて、返事をよこさない。答えられないというより、答えてはならないと考えているように見える。
彼は出し抜けに立ち上がると、おびえた顔のまま、自分の部屋へと向かう。
「おい、ポルックス……」
ルードの呼びかけには、ドアの激しく閉められる音が返ってきた。
「あいつなんて言ってた? 何があったんだ?」
「いや、何も。暴れるのを何とか連れ帰ってきたんだ」
ルードはため息をつく。ポルックスを連れ戻すのに手間取って疲れたようだ。それでも、彼の異常な様子が気がかりらしい。
「詳しい事を聞いた方がいいだろうか」
アレクもポルックスの部屋の方を見て、しばらく迷ったが、今のポルックスとまともに話のできる自信は無かったらしい。仕方なく、落ち着いてから話を聞く事になった。
ネルはアレクにうながされて、隣に座る。机に置かれたろうそくがじりじり揺れた。
「それで、何を見たんだ」
ルードの問いに、ネルはろうそくを見つめたまま、先ほど見た白い幽霊について話した。
結局、ネルは両親に追い付くことが出来なかった。両親は立ち止まりも、振り返りもしなかった。どんな理由があったのだろう。急いで行かなければならない場所があったのか、娘に追い付かれてはならなかったのか。
考えようとしても今のネルには無理であった。様々な気持ちが心の中で混ざり合い、何を考えていいかわからなかった。幽霊を見たくてここへ足を踏み入れたのに、見なかった方が良かったかもしれないとさえ思っていた。
ネルの混乱を強引に止めたのは、アレクの一言だった。
「違うさ、そりゃあ親なんかじゃねえよ」
ルードが、険しい目をしてアレクを見た。アレクは椅子にもたれて窓の方を見ている。
「幻覚でも見ただけだ。ルードもまともに取り合うなよ」
「確かに、正体はわからん。考えてわかる事じゃない。だが、ここでは何が起きても……」
「絶対にありえねえ! ネル、お前が気にし過ぎているから嫌な幻覚を見たんだ。本物なら、逃げるわけないだろ」
アレクが強い調子で言って、ろうそくが大きく揺れた。その時ネルは、アレクの部屋で手に取った、封筒の重みを思い出した。
ルードも、考え込むようにうつむいている。皆が口を閉ざす。
ネルは目を閉じて、幽霊の後姿をまぶたの裏に思い出す。背丈も髪型も、わずかに見えた横顔も、全て間違いなく父親と母親だ。
ネルが算術の公式を暗唱できるようになると、よくやったと頭を撫でてほめてくれた、父親の手。
何度も物語を読み聞かせてくれた、母親の声。
もうこの世界には無い二人の思い出が暗闇に浮かぶ。白い幽霊達が、幸せだった思い出を瞬かせながら、記憶の闇の中を駆けていく。
「私は、何にもできなかった」
目を開くと、部屋の風景がぼやけて見えた。
「すごく愛してくれたのに。すごく優しくしてくれたのに……何にも出来ないうちに、お父様もお母様も、いなくなってしまったから。何で死んじゃったの。全然、ありがとうも言えてないのに……」
涙があっという間にあふれて、次から次へとこぼれていく。とうとうネルは声を上げて泣き出した。
ついさっき幽霊を見たときとは違う涙。あの時は、ネルの心が勝手に流した涙で、ネルは感情を抱く余裕が無かった。
今はそうではない。悔しさや悲しみや寂しさを、もう嫌だというほど味わって、その苦さで流す涙だ。
声をあげて泣き続けるネルの肩を、アレクが抱いた。
「ネル、お前は何も悪い事してねえんだよ。穴埋め人が言うんだからこれは正しい。お前のそれは罪じゃない。ただお前が、優しい子なんだ。自分を責める必要はまったくねえよ」
ネルは恥ずかしくて何とか涙を止めたかったが、どうしても無理だった。
自分の胸につもっていた灰は、こんなにも冷たく、重かったのか。そう思った。
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