9 『灰量り』の物語

 穴埋めの無い日の男達はきっと暇だろうと思っていたが、それぞれ何かしらやる事があるのだとわかった。穴埋めの道具の整理や手入れ、家の古くなった箇所の修復、

掃除。薪を取りに森へ行ったり、馬の世話もある。

 今日来ると言われていたが、馬車はなかなか現れない。もう昼も過ぎている。いつ頃来るものなのかと訊くと、大体昼過ぎから夕方にかけてだと男達は言った。


 ネルは昨日と同じく、出来る範囲で男達の作業を手伝った。ルードが礼拝堂の掃除をすると言い、久しぶりにするから手伝ってくれと声をかけてきたので、ネルは一緒に行く事にした。


 礼拝堂は家とは別に建てられたあの小屋である。今日はルードと一緒なので、こっそり覗き見するのではなく堂々と扉を開けて中に入った。

 色褪せた赤いじゅうたんの敷かれた部屋。奥の壁に作られた台には聖典やろうそく、神の使いの像が祭られている。これは全てルードが飾ったのだという。内装だけでなく小屋自体も彼が建てたものである。

 ネルはルードと一緒に、数脚ある椅子を拭いたり、床の掃除をする。礼拝で使う香の薫りが部屋中に染み込んでいる。その独特の薫りの中で作業するうちに、頭の奥がくらくらしそうになったが、次第に慣れてきて自分が荘厳な空気に溶け込んでいくような気さえしてきた。


 ルードが聖典を入れる箱の埃を拭きながら、ふと尋ねてきた。


「ネルは、礼拝に行っていたのか?」

「うん。お母様のお友達が教父様なの。お母様と一緒に行ってたよ。祭りの時はお父様も一緒に」

「そうか」


 床を布で拭きながら、ネルはルードに話す。


「お母様がね、よく聖典のお話をしてくれたよ。天国と地獄のお話も。『迷った蛇の子』のお話がとっても楽しいから好き。ルードは知ってる?」

「ああ、天国に迷い込む蛇の話か」

「そうそう。天国で鹿と遊ぶところが凄く楽しいから、私も鹿と遊んでみたい、って、お母様に言ったのよ。そうしたら、私も、って、お母様が」


 ネルは本を読む母親の声を思い出した。ネルを安心させる優しい声。


「お母様はお話を読むのがとても上手かったの。それに、私が質問したら、凄く考えて答えてくれたわ。聖典のお話なら、同い年の子よりずっと知ってる。穴のお話は多分聞いた事が無いけれど」


 と、話しながらネルは気になった事があって、ルードを振り返って尋ねた。


「ルードはお話できるの?」

「私が?」

「だって、ルードって教父様なんでしょう? 紫のマントを持っているじゃない。あれは教父様が礼拝の時に着るものだわ」


 返事は来なかった。こちらに背を向けて掃除していたルードは聖典の箱を置いた。香の薫りの中を沈黙が漂った。


「そうだな……。一つ、話をしようか」


 ルードは一度ネルを見てから、近くの椅子に座った。


「何のお話?」

「昔読んだ物語だ。『灰量り』の話」


 ルードが目を閉じて、記憶を手繰る。

 ネルは掃除の手を止めて、椅子の一つに座ると、彼が話し出すのを待った。


「……人は死ぬと、この世を離れて天国と地獄のどちらかへと行く事になる。これは誰もが知っている事ですが、ではその裁きを下すのは一体誰なのでしょうか」


 ルードの口調は唐突に変わっていた。彼は物語を語り出す。


「こんな言い伝えがあります。天国と地獄の分かれ道には、一人の人物が座っている。男なのか女なのか、どちらともとれない不思議な顔をした人物です。ひとまず『その者』と呼ぶことにしましょう。


 その者は立派な銀の天秤を持っていて、死者が道をやってくるのをじっと待っている。そしてそのうちに、とぼとぼと道を歩いてくる、死者の姿が見えます。死者が分かれ道に差し掛かって、はてどちらに行けば天国か、と思った瞬間、その者はさっと近寄り、死者の心臓から灰を掴み出して、天秤に乗せてしまう。灰の重さを量るのです。


 この灰は何かというと、まだ生きている頃に死者の犯した罪の灰です。犯した罪が重いほど、その者が掴み出す灰は多く重くなる。天秤の傾きもまた大きくなり、その重さによって死者は、天国と地獄のどちらに行くかを決められるといいます。それが、その者の役目です。


 もし、決められた場所とは違う方向へ行こうとすると、その死者は残らず灰となり、永遠に、孤独に、何もない世界を風に流されて飛び続ける事になるのです。……」


 ルードが言葉を終えてから、死に絶えていた空気が息を吹き返すまで長い時間が経ったようにネルには思えた。

 ルードの話が溶け込んだ空気は今までと違う匂いをしているようだった。


「……私が初めてこの話を読んだ時、意図が少しもわからなかった。恥ずかしい事だけどね、教父でも理解ができない話というのもあるんだ。この話は、聖典に関する物語をまとめた本に載っていた。他の物語は、悪事を避けるための戒めや、生きる事への励ましを表すものだったのに、これだけは何の意味も見いだせなかったんだ。その時は、ただの空想物語として筆者が遊んだだけなのかと思った。だが、この場所で生きるようになって、わかったような気がするんだ」


 彼は聖典の方を眺めているが、壁の向こうのどこか遠くを見ているようだった。彼が話している相手はネルではなく、見えない誰かであるようだった。


「ここに……荒地に穴が出来る時、消える土は、どこかで誰かが犯した罪の灰になったんじゃないか……。穴を埋めながら、時々そう思えてならないんだ。大きな罪を犯すほど、この場所にできる穴も大きくなる。そうなんじゃないかとね」

「じゃあ、私はやっぱり呼ばれてここに来たのね。私の心臓にある灰が、帰りたいって、そう言ってるんだ」


 ネルの顔をちらりとルードが見る。思いがけない事を言われたような目。


「私には、お前の心臓に灰など見えないな」

「ううん、あるんだ。私はお母様もお父様も助けられなかったから、それが私の灰なのよ」


 ネルは自分でも気づかないうちに、つかんだ服の裾がしわだらけになるほど、ぎゅっと手を握り締めていた。


「お父様とお母様の事、話したよね。二人とも、死んでしまうのを止められなかった。お母様が、燃えている家の中にいるのに、私は外にいるだけで何もできなかった……。お父様の時だって、夜遅くに一人だったから、私は叔母様の家で帰りを待っていて、知りもしなかったのよ。だから……」


 ネルは手元に落としていた視線を上げた。すると、自分を見つめる眼差しとぶつかった。ルードは、ちゃんと聞いているよ、と言うかのように、ネルを優しく見つめたままうなずいた。

 じいん、と頭の奥が熱くなって、ネルは急いで顔を横へ向けた。


「……灰、そう、私の心臓にはそれだけ灰があるんだと思う。助けられなかった罪なんだよ。私には何も出来なかったのかもしれない。どうしても避けられなかったのかも……。けれど、私にはやっぱり罪があると思ってしまうの」


 ネルは思い浮かべてみる。天国と地獄の分かれ道。寂しい風の吹くその場所で、灰量りが自分の胸から掴み出す灰は、どれほどの重さなのだろう。さらさらと灰のこぼれる音が聞こえて来て、しかしそれはルードが椅子から立ち上がる衣擦れの音であった。

 ネルの頭に差しのべられるルードの掌。掌は大きく、頭をなでられていると、まるで日の光で暖められているような穏やかな熱がネルには伝わってきた。


「私の灰でなら、きっと穴の一つや二つ、すぐに埋められるのだろうな。……お前は天国に行くんだぞ、ネル」


 まるで独り言のように、ささやき声が聞こえたのもつかの間、掌はするりとネルを離れた。目を上げると、ルードはほんの少しだけ笑っていた。


「さあ、掃除を済まそう。早く夕食のパンを焼かないと。私は下手だから、焦がさないよう見ていてくれないか」

「……うん」


 再び掃除にとりかかったルードが、これ以降、灰の話に触れる事はなかった。

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