5 出発
次の朝、ドアを閉める音でネルは目を覚ました。
部屋を出ると、大きな背中が玄関の方へと遠ざかっていくのが見えて、すぐに後を追った。
「ルード、おはよう」
「……ああ、驚かせるんじゃない。まだ寝ていても良いぞ」
「目が覚めちゃった。外行くの? どこに?」
ルードは、玄関のドアから足を踏み出しかけて、何か思いついた様子で立ち止まった。
「一緒に来るか? 見張り台に、旗の確認に行くんだが」
ネルは頷いて、ルードに続いて家を出た。
早朝の森は、きぃんと張りつめた空気に満ちていた。ルードが前を歩き、ネルは子犬のように後ろをついていく。二人とも黙って道を進み、見張り台のはしごを登った。
ルードが望遠鏡を拾って、荒野の方を眺める。
「今日も仕事だな」
そう言うとネルに望遠鏡を渡した。望遠鏡は冷たく、小さいのに重い。
「見えるだろう、赤い旗が」
ネルは望遠鏡を覗き込んだ。赤いものがちらついているのが見える。
それは、砂まじりの風にはためく赤い旗であった。昨日ネル一人で見た時には気づかなかったが、荒野の真ん中にはもう一つ見張り台があるのだった。その上に赤い旗は立てられている。
「あちらとの連絡手段だ。赤ならば穴がある、つまり仕事がある。私達は行かないといけない。青だったら、今日は穴は出現していない、という事だから休みで、一日ここにいる事になる。白もあるんだが、それは何か異常事態の場合しか使わない」
話しながらルードは、床に置いていた旗の束から、赤い旗を取って柱に固定した。微風で揺れ始めた旗はようやく目を覚ました寝ぼすけの子どものようである。
「旗を確認して、あちらへ行ける時は赤。休みだと確認したら青。何か問題があって休む時は赤と青の両方を出しておいて、異常事態は白だ」
「これならずる休みできるね」
「そんな事はしない。する訳にはいかない。この前休んだのはいつだったかな。アレクが大風邪を引いて、私とポルックスにまでうつした時だな。最悪だった」
「ねえ、今日こそは私も連れて行って」
ふいを突くようにネルは言った。
ルードはすぐには答えず、荒野の旗をじっと見ている。赤い旗は炎のようにちらちらと瞬く。
「なんで行かなければいけないんだ。それが説明できないと、駄目だ」
「穴を見てみたい……だけじゃ足りない?」
本当は他にも、理由があった。
あの、ロッヒという男は、ネルに何を伝えようとしていたのか。彼の言う意味は何だったのか。それを確かめたかった。
急に風が強くなった。
旗が勢いよく身を翻す。風が吹き終わった時にルードは呟いた。
「……穴には近寄らない」
「えっ?」
「穴には決して近寄らない。仕事をしている奴らを邪魔しない。目の届かないところへ行かない。早く帰りたいと愚図らない。全部、守れるか?」
ルードは何一つ表情を変えていなかった。無愛想で笑みの一つも見せないまま話しているが、いつもは厳しく相手を見据える目が、どこか呆れているような、緊張を和らげているように見えるのであった。ふとネルは、自分がいたずらっ子のように思え、同時にルードが呆れ果てた父親のように見えた。
「……絶対守る!」
そうして、ネルは荒野に行く荷馬車に乗り込む事となった。
アレクとポルックスはルードが考えを変えた事に酷く驚いていた。だが異存は特に無いようで、というよりももう何を言ってもネルが聞かないだろうと諦めたらしく、ネルの分も昼食を用意してくれた。
それまでネルは、街から着てきた上着とスカート、気に入っている靴という服装だったが、「そのスカートと靴は駄目」というルードの意見で、彼らは家中を探し回って服を探し、一番小さなシャツとズボンを出してくれた。三人のうち最も小柄なアレクのものだったが、何度も袖や裾をまくって、ベルトを付けることでどうにか着る事が出来た。靴は皆が履いているのと同じ革のブーツを借りた。さあ行こう、と思ったら、「髪がうっとうしいんだよ」と言いながらアレクが紐を持ってきて、ネルの長い髪を結んでしまった。その手際の良さが意外だった。
馬が荷馬車につながれて、アレクの手綱でゆっくりと走り出す。荷馬車は唸るようにきしんで、どんどん家が遠のいていく。見上げれば、森の中は様々な濃さの緑が重なり触れ合いながら天を覆っている。馬が土を踏みしめる音に合わせて揺れる荷馬車。
長い間、荷馬車は四人を運んだ。四人とも、時折小さな声で会話をかわす以外は、森に静寂の支配権を委ねていた。そのうちにネルはお尻が痛くなってきてしまった。森の道は整備されておらず、でこぼこしているので、街で乗る馬車よりよく揺れるのだ。しかし痛いと言えば下ろされてしまうかもしれないので、我慢していた。
そして、細く続いていた道の先が明るくなって、より色彩を失った景色が現れる。
荷馬車が森を出た瞬間、ネルはある変化に気が付いた。視界が開けて、空と地面のまざる地平線がおぼろげに見える。
果てしなく広い、砂と土の荒野。
それなのに、打ち捨てられた邸宅に迷い込んでしまったような印象が、しんと胸に響くのだ。一昨日、ここを訪れた時はろくに意識もはっきりしていなかったので、そこまで気にする余裕が無かったけれど、今のネルは目に見えない歪な感触を感じ取っていた。
「ネル、わかるか? 気持ち悪い感触がするだろ」
御者台からアレクが言った。
「何だか変よ。これだけ広いのに、全然広い感じがしない」
ネルはうっかり「怖い」と呟いてしまいそうだったのを寸前で飲み込んだ。
「そうだろ。こんなとこ、本当は来るもんじゃねえんだよ」
それきりアレクは黙ってしまった。
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