4 絵
木々の枝の先に太陽が隠れるようになった頃、言っていた通り穴埋め人達は帰ってきた。
三人とも疲れて口数少なであるが、行動はてきぱきとしていて、荷台から水の入った桶をいくつか下ろした。森を流れる川に帰り道で寄ってきたという。男達はそこで必要な水を汲み、水浴びをして、そしてネルのために余分な水まで運んできてくれたのだ。お礼を言ってネルは家の裏手で一人で冷たい水を浴びた。
四人での夕食が始まるや否や、ネルは宣言した。
「明日は連れて行ってね。私、もう元気だから、邪魔にもならないし」
だが、ルードはいまだ頑固であった。
「いや、駄目だ」
「何で?」
「それは私から訊きたい。お前の行きたい理由が私にはわからない」
ルードがそう指摘するのも無理は無いように思われた。ネルは困ってしまった。
「私も……本当はわからないの。だから、行って確かめないといけない、そんな気がするの」
「気のせいだ。そんな考えで行って、穴にでも落ちたらどうする」
そこで、ポルックスが口を挟んだ。
「そう頑なにならなくてもさ、良いんじゃないかな。女の子一人をちょっと連れて行くだけだろう? ネルがそんな、赤ん坊ならそりゃあまずいとは思うけどさ。何歳だっけ」
「この前、十一になった」
「十一なんて赤ん坊みてえなものじゃねえか」
アレクがじゃがいもにフォークを突き刺しながら言った。
「何て事言うのよ。まだ大人じゃないけれど、赤ん坊でもないわ!」
「これぐらいでムキになってちゃ変わらねえや」
「まあ、赤ん坊よりずっと物を考えられるんだからさ。それに、一度行ってみれば何かわかるかもしれないよ。こう、胸がすっきりしないじゃないか。車のところでじっとしていてもらえば、邪魔になる事だってない」
「私は反対だ」
ルードはどうしても意見を変えなかった。ポルックスは気まずそうに自分の皿へ視線を落とした。テーブルの周りを鉄柵で囲まれているような、重苦しい沈黙が続いた。
「……で、今日はお前、何してたんだよ」
固い空気をどこかへ蹴飛ばすようにして、アレクの言葉がネルに向けられる。
ネルは、家の周りを歩いたり、見張り台に登った事を話した。そして、見張り台で思い出した疑問を投げかけてみる事にした。
「あの、ここには他に人はいないの?」
「この家には私達だけだ。他に五つ家があって、人は全員で二九人いる。お前がここに運ばれたのはたまたま私達の家に余裕があったからだ」
この森には、彼ら以外にも人間が住んでいるのだ。それを聞くと不思議な感じがする。こんなに静かな森で何人もの人が息をひそめるように生きている。
「その中の誰かかな。私、会ったんだ。大きな穴の向こう側に立ってた。顔がよく見えなかったんだけど」
「へえ? どんな格好だったとか、わかる?」
ポルックスが言った。ネルは思い出すまでも無く答えた。
「大きな服と帽子を着てたわ。顔はよく見えなかったけど。誰かわかる?」
「ロッヒに会ったのか?」
すぐにルードが言った。その声には驚きがにじんでいた。
「あの人、ロッヒっていう名前なの?」
「そんな格好の奴は他にいないからな。そもそもあの時、荒地にいるとしたらロッヒぐらいだ」
「でも、一人っきりだったわ。あなた達みたいな人は一緒じゃなかったよ」
「当然だ。彼は番人なんだから」
番人とは何か、とネルが尋ねる前に、アレクが訊いてきた。
「なあ、あいつ何か言ってたか?」
ネルは食事の手を止めた。彼女はまだ、口に出しても良い真実と、外に出さず心に置いておくべき真実をまだはっきりと見分ける事ができない。だがロッヒとの会話だけは、今ここで口にするべきではないと感じ取った。
「私を見ているだけだった。地面を見ていたのかも」
男達は互いに不思議がるような視線をかわしあって、食事を続ける。
「……ロッヒの事は私にもよく解らん。ただ、あいつは穴の番人なんだ。あの荒野に一人で住み、私達のいる森へ合図を送ったりする役割だ」
「指揮官みたいなものだよ。僕らの隊長さ。僕らの方は交代で物資を運んでいったりするんだけど」
「薄気味悪い。俺は好かねえぜ、ジョークの一つも言えねえ、石みてえなやつだ。真面目野郎ならルードで十分足りてるっての」
「悪かったな。明日のパンはお前が焼けよ」
息苦しい雰囲気は消え失せ、場が元に戻ったかと思われたが、男達がそれ以上の説明を避けようとしていたのは明白だった。何か歯車の欠けたような会話が続いた後、食卓の片付けやそれぞれの雑事のために皆はテーブルを片付けて、緑の古いテーブルクロスも取り払った。
ネルはまずルードと、ここにいる間の取り決めを話した。食事などを提供する代わりに、せめて家の仕事を手伝ってほしい、とルードは言って、ネル自身も納得したので手伝いをする事になった。それからは、簡単な掃除と、洗濯するのを手伝う事で時間を過ごした。
ネルがポルックスの部屋を訪れたのはその晩である。手伝いとして、洗濯をした服を持っていったネルは、ノックして入った室内で意外な色彩に目をぱちぱちさせた。
壁に飾った絵。家具に立てかけられた絵。鮮やかな色で構成された絵が何枚もあったのだ。
「ああ、ありがとう、その辺に置いてもらっていいよ」
ポルックスは部屋の奥でキャンバスに向かっていた。足元には絵の具や水を入れた容器が散在している。
絵には色とりどりの果物が描かれている。かごに詰められた果物の静物画。
「絵を描くんだね。見て良いかしら?」
近くの棚に洗濯物を置いてから、ネルはポルックスの近くまで歩いた。
「趣味でさ、小さい頃からずっと描いてるんだ」
「そうなんだ。きれい」
筆を持ったままポルックスは頭を掻いた。そしてこう言った。
「さっきは悪かったね。君が穴の所へ行かないように、皆で好き勝手言ってさ」
夕食の時の話らしい。ネルが荒野に行かないよう説得した事を彼は気にしているようだった。落ち着きのない様子で、あごについた黄色い絵の具を袖で拭いた。それから眼鏡をかけ直す。
「ルードの事も許してやってくれよ。嫌がらせであんな事を言っているわけじゃないんだ。君はまだ子どもだし女だから、心配しているんだよ。あっちは何かと危ないからね……何が起こるかもわからないから」
それはネルだって理解しているつもりだ。
向こうは得体の知れない『病気』の土地なのだ。ただの子どもである自分が行ったところで、男達の負担になる以外に何があるだろうか。けれど、行きたいという気持ちは少しも揺らがず、諦めるつもりもないので、ネルは言い返さずに黙っていた。
「僕らでも荒野に関してわからない事がたくさんある。というより、肝心な事は何一つ知らないんだ。ネルはどこまで知っているんだい?」
「街で聞いたのは……穴が開いていく病気、って事。あの場所だけ地面にいつの間にか穴が開いて、埋めても埋めても新しいのがどこかにできる」
ネルは街で伝わっている情報を正直に答えた。しかし、穴埋め人の事については言わなかった。それに気づいているのかはわからないが、ポルックスは頷いた。
「そうだね。けど、この辺りがそうなったのはそんなに昔じゃないんだ。三十年くらい前かな。けど、川の向こう側はもっと昔からだ。発端は北なんだ」
ポルックスが引き出しをあさって一枚の無地の紙を取ってきた。そこに細い筆で地図を描いてみせる。ネルが見張り台から見たような地形の図である。荒野の北を東西に流れる川の、更に北に、ポルックスは赤でバツを書きこんだ。そして荒野のある南まで矢印を引く。奇病の広まる方向である。
「発端が何なのか僕は知らない。ただ、確実に感染して、広がっている」
「感染……」
「穴が出来るまま放っておいたら、穴が土地を埋め尽くして、とうとう川を越えてこちらまで広がってきてしまったらしい。穴は塞がないと余計に広まっていくんだ。だから僕らがいる。僕らが毎日穴を見張って、埋めて、そうして病気が街まで広まらないようにね、食い止めてる城壁みたいなもの。『穴埋め人』って事さ。……ただ、僕には『病気』というより、『呪い』に思えるんだよ」
穴を埋めるために生きる人、穴埋め人の一人として、ポルックスはそう呟く。
「呪われるような事、誰かしてしまったのかしら」
ネルがそう言うと、ポルックスは地図になった紙を置いて、またキャンバスへ向かった。
「さあ。一体どれぐらいの罪を犯したらこんな事になってしまうのか、僕には考え付かないね。……人間が背負いきれる程度の罪じゃない。人という器から溢れ出してしまったのかもしれないね」
ポルックスは筆をパレットに押し付ける。太い筆が黒い絵の具を含んで、たぷりと水滴を光らせる。
「だから罪人である僕らが埋めなきゃいけないんだ。穴埋め人は皆、罪人なんだって、街で聞いただろう? これはただの労働でも奉仕でもなくて、罰だ。僕らは正当な罰を受けているに過ぎない。僕はそう思うな」
筆が絵の上を滑る。果物の周りの空気が灰色に塗られていった。
ネルはポルックスの部屋を出て、扉を閉めた瞬間、言いようのない恐怖に見舞われた。
気づきながら知らないふりをしていたのかもしれない。人がどうにも出来ない大きな流れ。北から『穴』と共にやってきて、荒野と森を飲み込む奇妙な気配の流れに、ネルは怯えていた。
ネルだけがこんな気持ちになっているのではない。きっとポルックスも、ルードやアレクも、穴埋め人達は全て、この恐ろしい気配にさらされ続けてきたのだ。無表情に存在を否定してくるような、人間という生き物には抗えない気配。
それから、最後にポルックスが口にした言葉。『穴埋め人達は、皆が罪人』と彼は言った。『時計塔の街』には正式に記録が残されているという事だが、ネルが街にいた時、直接目にした事も、誰かが穴埋め人に決まったという話も聞いた事が無かったので、これで本当に彼らが罪人であるのだとわかった。
だが、彼らはどんな罪を犯したというのだろう。
ネルには穴埋め人達が――ルードが、アレクが、ポルックスが、穴埋めという罰に値するような罪を犯す人間とは、どうしても見えなかった。
見ず知らずでふらりと現れたネルを気遣ってくれる、優しい人間達としか思えないのであった。
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