3 見張り台

 外に広がる森は、うっすらと霜の下りたような緑色である。沢山の葉を身にまとった木々は眠っているように黙り込んだままだ。

 荷馬車、といっても屋根のない簡素な造りのものが一台、家の横手にあって、引き手として馬がつながれているが、これもまた目を開けたまま居眠りしているかのように鼻息ひとつ立てない。車にはごたごたした色んな物が積まれているが、どれもこれも土に汚れていて、しわくちゃの土の皮膚を被っているように見える。


「大人しく寝ているんだ。わかったな」


 既に御者台に乗り込んでいたルードがネルに向けて念を押す。ポルックスが後ろの荷台に乗り込んでいる間に、アレクがふざけて言う。


「一人のお留守番にビビって、めそめそ泣くんじゃねえぞ!」

「そんな子どもじゃないもの!」


 おー怖い、というアレクの声と、手綱がぴしゃりと鳴る音が重なった。

 荷馬車が走り出した。ネルを一人置いて。ひたすらに沈黙する木々の影をくぐって、森の中の細い道を辿っていく。そうしてとうとう、がたごとという車輪の音すら聞こえなくなってしまった。


 ネルはまたしても一人になった。


 男達が帰ってくるまで何をしていようか。もう一度寝てみようかと考えたが、そんな気分でもない。

 辺りはしんとしている。森は明るくこそ無いものの、歩き回るには十分な光が射していた。深呼吸すると葉と土の薫りが胸に染み込んできた。ネルはとりあえず家の周りを歩いてみることにした。

 寂しさや怖さで泣いたりなどしない。それよりむしろ、男達についていけず、穴を見られない事が残念でならない。悔しいから明日は必ず行こう、と心に決めた。


 正確に言うなら、ネルは既に『穴』を見ていた。ただ、記憶さえ褐色の砂で覆われてしまっているようで、はっきりとは思い出せなかった。穴は人智の及ばない、生き物のような存在感を持っていた。地面を飲み込んで広がる穴は、人間の知ってはならない何かの一部のようで、怖かった。


 怖さを感じた途端、悔しさは興味に取って代わった。

 この場所は一体何なのだろう。あの男達の暮らすこの家は何なんだろう。

そんな好奇心がなみなみと身体中に溢れてきて、もう歩き回らずにはいられなくなってしまったのである。

 森は静かだ。ざわりざわりと葉のこすれる音が上からこぼれてくるだけで、人の声はおろか、虫や鳥の声さえ聞こえない。

 家の周りには、空っぽの小さな馬小屋と、何に使われているのか見た目ではわからない建物があった。好奇心のままに、扉をそっと開いて中を見てみると、何脚かの椅子と、奥に祭壇のある小さな礼拝堂であった。荘厳な雰囲気を感じたので中には入らず、そっと扉を元通りに閉めた。

 それからネルは、繁る木々の先に立つ、見張り台を見つける。

 躊躇なくそこへ近づく。見張り台は太い木材を組んで作られ、はしごのてっぺんには屋根のついた展望場所があって、森の木々よりも高い。この場所だけが朝の陽光を存分に浴びて目を覚ましているようだった。


 (この上からなら、穴のあった荒野まで見えるかもしれない)


 ネルが昨日見た荒野は、森を北に抜けた辺り一帯である。せめて見るぐらいなら許されるだろうと思って、はしごに飛びついて一心に上った。

 見張り台に立って、思わず大きく息をついた。その眺めは予想を超えるものだった。

 前方には広がる土色の大地。土が生まれ育つ場所のように、それ以外には何も見当たらない広大な土地。その更に向こうには川のようなものが、ほんの僅かに見えている。

 手前に視線を落とせば、灰色がかった濃緑の森が敷かれていて、ちょうど三日月のような形で荒地を囲むように広がっている。川と森は、荒野から生まれ出た石ころの一つも逃さぬ任務でも負っているかのように、荒野の周りに腕を広げて囲い込んでいるのである。


 空は半分ほどが薄い雲に身を隠している。そこからちらちらと太陽が覗き見してくるのを気にも留めず、ネルは景色に見入った。足元を見れば木板の足場の隙間からずっと下の地面が見えて、心臓の冷える思いをするので、顔を上げて周りを見回す事に集中した。

 足場の隅には、色のそれぞれ違う旗が幾つかと、古びた望遠鏡が置かれている。旗には触らずに、ネルは望遠鏡を取って荒地を見てみた。すると予想した通り、荒地には点々と、ぼんやりした影が見つかる。


 昨日見たあの穴はどれだろうか?

 ここからではかろうじて粒のような影が見えるだけである。あの穴の周りには男達がいるのだろうか。


 それから、あの大きな帽子の男。荒野で言葉をかわした男の事が気になり始めた。

 彼は、この家で会った三人の男――はっきりと人間である感触を持った人間達とは全く異なる雰囲気を持っていた。人間という気配すら希薄だったように思われる。つま先から帽子のてっぺんまで、夢の中から抜け出してきたようなおぼろげな空気をまとっているのに、視線は鋭くこちらに突き刺さるようだった。

 彼はネルに、人間かと尋ねた。彼こそが幽霊だったのだろうか?


 ――罪人のたどり着く場所。


 はっとした。ネルは望遠鏡から目を離した。

 誰かのささやき声が頭に響く。記憶の中に潜んでいた噂話が蘇る。


 ――病気にかかった土地なんだよ。

 ――永遠に穴に侵食され続ける……。


 次々と浮かぶ他人達の声。ネルはその場で振り返る。

 荒野と反対側には、街があり、その中心に建てられた時計塔が突き出して見えた。

 声は皆、ここに来る前に、ネルが『時計塔の街』で聞いたものであった。街自体はそれほど大きくはないけれど、中央に立派な時計塔がある事から、そう呼ばれているのである。穴のある荒野について尋ねると、きまって街の人々は顔に影を落とし、生き生きしていた眼の光を曇らせてひそひそ言うのだ。


 街のほぼ北に位置する森の向こうには荒野が広がっている。その荒野は、『穴』にいつまでも脅かされる奇病にかかっている。そのため、大罪を犯した人が『穴埋め人』として、荒野で穴を埋め続ける無期限の刑に処せられている…。


 それがネルの耳にした話だ。

 『穴』が一体何なのかは誰にもわかっていない。何か兆候がある訳でもなく、突然に現れる穴。地面から土だけがごっそりと消えるのだ。動物が掘った訳でも、風が飛ばしていった様子もなく、ただ穴だけが現れる。

 これらの事は、『穴埋め人』以外は実際に見られないので、情報としてのみ街では伝わっている。実際に『穴埋め人』となる人はごく僅かだが、彼らがその罰を受ける事となった記録は確かに残されているという。

 『時計塔の街』はある意味、森に守られていると言って良かった。その上、森には幽霊が出るという噂もあり、街の人々は決して近づかないし、子どもは森へ踏み込んではいけないときつく教えられるのだ。

 ネルのいる見張り台から、街の様子はほとんど見えないが、賑わう人の声がここまで届きそうな気がしてきた。しかしそんな栄えた街も、すぐそばで息をひそめている森と、その先にある土地の奇妙な現象に怯えながら、無理をしてはしゃいでいるように思えてならない。


 ひゅっ、と、荒野のついたか細い息のような風が耳元で鳴った。

 ネルはもう一度、森と荒野と空を眺める。色彩で着飾るのは空虚でしかない、とでもいうような倦怠感が白く景色を覆っていた。

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