2 焦げたパン


 穴を見に行きましょう、と、母親が言った。

 ネルは手を引かれている。母親のさらさらした、美しい手。けれどとても冷たくて、ネルは震えている。

 お父様、寒いの。

 ネルは何度も、前を歩く父親に呼びかけるが、父親は振り返ろうともしない。どんどん先へ行ってしまう。母親の手はネルを凍らせてしまおうとしているように一層冷たさを増す。

 父親が突然に振り返って、何かを指差した。

 ほら、思っていたよりも小さいよ。

 家の中。磨き上げられた白い石の床が消え去っている。シャンデリアの下で、ぽっかりと広がっている穴。

 逃げ込まないといけない。ネルはそう直感する。いまや炎のような冷たさの手を振り払って、ネルは穴へと駆ける、

 真っ暗の空洞に身を投げ出す―――。


 ネルが目を覚ましたのはベッドの中だった。

 薄暗い部屋は穴の中かと錯覚しそうなほどで、ネルの他には人はいない。起き上がると骨のきしむ音が身体中に響いた。部屋を見回すと小さな窓が目に留まった。しかし薄汚れていて、暗いせいもあって外はよく見えない。

 ドアを開けると廊下に出た。室内よりも少し寒い。

 廊下に面して、ネルのいた部屋以外に三つのドア。突き当りにある窓からは、心ここに在らずといったか弱さの光が差し込んで、建物のどれもこれもが古びた木製の造りであることをネルに教える。


 足音が聞こえた。音の方を向くと、一人の男がネルを見ていた。

 ネルの知らない人物である。

 黒っぽい長袖のシャツとズボンを着ていて、どちらも古びている。とても背が高い。気難しげな顔立ちをしていて、ひげはきちんと手入れされている。

 まるで彫像に見下ろされているようだ、とネルは思った。確かにそこにいる感覚はあるのに、あまりにも静か過ぎて、息をしていないように見えるから、男が彫刻のように思えたのだ。


「立てるのか? 具合はどうだ?」


 男がネルを見下ろして言った。ゆっくりと空気に染み込むような声であった。ネルは返事を考えるのに少し時間がかかった。


「何ともない。大丈夫」

「なら、食事は取れるか。何か食べた方が良い。こっちだ」


 男の後についていく。廊下の先はテーブルや椅子のある部屋だった。壁際には暖炉と調理器具、あとは大小の棚がいくつかあって、こまごまとした日用品がしまわれている。雰囲気からして朝だと思われた。


 ネルは椅子に恐る恐る腰を下ろす。凸凹や傷だらけのテーブルには数枚の皿とコップ。皿には若干焦げたパンが準備されている。男が大きな身体を折り曲げるようにして暖炉を覗き込む。

 何かを話しかけた方が良いのではないか、とネルは思った。しかし言葉を考える前に、やたらと耳につく足音が廊下からやってきた。

 現れた二人目の男は、暖炉の前にいる男よりははるかに小柄で、伸びかかった赤毛に寝癖がついている。彼は寝間着らしいくたびれた服に手を突っ込んで、背中をごそごそ掻きながら、


「くそ、虫がいやがった。一晩中眠れねえったらありゃしねえの」

「おはよう」 大柄の男が振り返らずに答える。やはり今は朝で正しいようだ。

「おはよう。あれだ、また焚いてくれよ、虫取りの薬」

「自分でやるんだな」


 ひでえな、と呟く赤毛の男。そして彼はネルの方を向いた。彼女がいる事を今思い出したとでもいうように、胡散臭そうにじろりと睨む。


「お前、どこから来たんだよ。あんな所まで」

「……どういう事?」

「生きてんだから、どこかから来たに決まってんだろ。それとも風に乗って飛んできたか?」

「アレク」


 大柄の男が低い声で止める。アレクと呼ばれた男はそれを気にしない様子で、


「わかってるって。まあ幽霊じゃあ無いだろうな」

「森から来たのよ、ずっと歩いてきたわ。一人で……」


 しんとした。アレクも、皿にベーコンと卵を並べていた男もネルを見た。幽霊でも見るようなぎょっとした顔である。


「……どうしたの? 幽霊だと思った?」

「ごめんごめん、遅くなったよ」


 新しい声が聞こえた。先ほどアレクの現れた廊下から同じように男が歩いてきた。他の男達と似た服装に、丸い眼鏡をかけたその男は、ネルの顔を見ると親しげに笑いかけてきた。


「おや、おはよう。気分は悪くないかな?」

「ポルックス、聞いたか、このガキ、歩いてきたんだとよ! あんな場所まで!」

「良いから朝飯だ、お前も座れ」


 後から来た男が急いでネルの隣に座る。食事を目の前にして、ネルは空腹を自覚せずにはいられなかったが、すぐには手をつけられなかった。大柄の男が祈りの言葉を唱え出したからである。

 短い食前の祈りが終わって、食事が始まるとすかさず、隣に座った眼鏡の男が言った。


「君、歩いてきたって本当か? あの場所に一人でいたらそりゃあ、歩いてくるしか無いだろうけど」

「パウエルの馬車にこっそり乗ってきたんじゃねえか?」

「馬車? ここには馬車が来るの?」


 パンをかじっていたアレクが、しまったという顔をする。


「何でもねえよ! ったく、おいポルックス、パン焦げてるぞ」

「僕が寝坊してきたの見てなかったの? 今日はルードだよ」

「何だよ、お前かよ。お前いつもパン焦がすよな、学べよ」

「文句を言うなら自分で焼け」


 ネルの向かい側からルードという男が言う。どうやら食事は交代で作っているようだ。アレクの言う通り、パンは焦げかかって固かった。けれどそれに空腹が負けるはずなく、ネルは構わず詰め込むように食べる。


「あー。そうだ。馬車は来る。それで、お前はそれに乗って行くんだ。わかったか」

「……えっ?」

「二日後だ」


 アレクに代わり、ルードが言う。


「……昨日、穴に落ちたお前を、俺達がここまで連れてきたんだ。お前が歩いてきた森の、荒地に近い側にあるのが、ここだ。ここには決まった日に街から馬車が来る。次に来るのは二日後だから、お前がここを出ていくのも二日後だ。歩いて帰らせる訳にはいかないからな」


 ネルの頭の奥、まだ眠りこけていた部分がぱちりと目を開いた。


「二日後に馬車? 私を運ぶ?」

「そうだ、森の向こうまでな。『時計塔の街』まで行けるかはわからんが、少なくとも森の出口までは連れて行く。どういう訳でこんな所に来たのかは知らんが、子どもがいて良い場所じゃないんだ」


 怒る訳でも脅す訳でもなく、ただ静かに、事実を一つずつ、しかし有無を言わせずに伝えるルード。その話し方は、年老いた厳格な先生が子ども達に教え聞かすやり方に似ていた。


「ルード、それまではここに居てもらうんだよね?」 ポルックスが確認した。

「そうだ。余計な真似はせず、大人しくしているんだ」


 ルードの話はそれで終わりのようだった。

 ネルは不思議に思った。女の子が一人で、どうしてここにいるのか、誰一人として詮索しようとしないからだ。

 アレクは興味を持っている事が見て取れるが、あからさまに尋ねる事はどこか避けているようだし、三人の男達は、今ここにネルという子どもがいる、という事のみを受け入れようとしているように見えた。彼らにとって今という時間はきっといつもの日常でしかないのだろうとネルは考える。そしてその風景の中に、明らかに場違いな人間、小さな女の子がひょっこり混ざった、それだけの事。


 事情を隠さないといけない理由をネルは持っていなかった。尋ねられれば答える事ができた。ネルから話し出す事もできたのだが、何も言わなくても構わない、という彼らの、共有された不可視の道徳のようなものがどこか心地よく感じられて、何も言わずにおく事にした。

 ルードが食事を終えて立ち上がった。


「早くしろ。ただでさえいつも遅いんだから」

「はいはい」

「どこかに行くの?」


 尋ねた後で、ネルの目にあの荒野の風景が蘇った。


「穴だよ。君が落ちた穴をね、埋めてるところだよ。今日中には終わるかな。ところで君は僕らの事を知らないのか?」


 ポルックスが言う。男達はばたばたと食事を済ませて席を立つ。


「街で聞いたよ、『穴埋め人』の事。『時計塔の街』で聞いたわ」

「それそれ。だから僕らは穴を埋めに行くのさ。これからね」

「連れて行って。私も連れてって!」


 驚いたのはポルックスだけではなかった。ルードはどこかへ行ってしまった後だったが、残っていたアレクが変な声を上げた。


「お前、何言ってんだ? これは俺達の仕事だぞ? ガキがついてきてどうするんだよ、穴の周りで砂遊びでもしてるか?」

「ガキじゃない、ネルよ。私はネル。ねえお願い、行きたいの!」

「ふざけんなよ。おい、とっとと行こうぜ」

「何で行きたいの? ええと、ネル?」


 聞いてる場合かよ、とアレクは呆れている。ポルックスにネルは言う。


「見ていたいの。あの穴。上手く言えないけど……大きくて怖いのに、また行かなきゃいけない気がするから」


 どうしてなのかネルにはよくわからない。自分でも不思議なぐらいだ。けれど、昨日見たあの大穴の記憶が、頭の中から離れずにいて、何かを訴えるようにネルを惹きつけていた。


「そう……でも、色々と危ない事もあるから、ここに居た方が良いよ」

「別にはしゃぎまわったりしないもの! 大人しくしているだけで邪魔もしないよ。それに、ここに居たら私、泥棒になっちゃうかもよ?」

「盗めるような価値のある物、ここにはねえんだよ。鍋でも盗っていくか?」

「アレク、やっぱり連れていっても良いんじゃない?」


 ポルックスがあっさりと意見を変えて、アレクは冗談じゃない、と顔をしかめる。


「いや今思い出したんだけど、ネルはずっと歩いてきた訳だろ。どれぐらい?」

「三日ぐらいだと思うんだけど……」

「それだけうろうろしていたんだから、僕達のいない間に、また体調が悪くなったりしたら大変だと思わないか?」

「おい、何もたもたしているんだ」


 廊下とは反対側にある入口の扉から、ルードが頭と肩だけ部屋に滑り込ませる。


「ルード、なあ、こいつがついていきたいって言い出したんだ」

「駄目だ」


 即答だった。

 その一言だけ言い残して、扉が閉められた。ルードのたった一言がアレクとポルックスの上にどすんと落ちて、もうそれ以上の相談をさせないように見張っているのだった。


「あいつこういうの頑固だからさ……、許してくれよな」

「……じゃあ、今日はじっとしてる」

「今日はってな、お前……。先行ってるぞ」

「ああ。……ネル、さっきの部屋が君のだから自由にしていい。日が沈む前には帰ってくるよ、必ず。悪いけど夕食はそれまで待っててくれ。昼食はきっとルードがその辺に用意してるから。ちゃんと食べるんだよ」


 ポルックスは細々した事項を急いで伝え、アレクを追うようにして扉を開ける。続いてネルも部屋の外に出てみた。そして、皆の言った事は嘘ではなかったのだとやっと知った。

 扉の向こうには、森が広がっていた。

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