巨人よ、穴を埋めよ
空飛ぶ魚
1 なにもない
なにもない。
ネルは初めて目にする大穴を前に、そう思った。
穴。ネルの足元で唐突に始まっている陥没は、干からびた褐色の側面を緩やかに湾曲させて、飛び込んだ人の足をあらぬ方向へ捻じ曲げてしまいそうな深さの底へ続いている。何も無い。穴の底には何も見えない。駆け足で空を上りつつある太陽は、穴を隅々まで照らし出しているが、ネルはそこに何の意味も見いだせていなかった。
穴は荒野の真ん中に存在していた。乾いた土と石がどこまでも続く荒れ地。細かな砂を含んだ風が吹き抜ける。風が運ぶ熱気を肌に感じた時、喉が渇いた、とネルは気づく。最後に水を見たのは確か、森の途中で見つけた川だった。水は丸一日、食べ物はここ数日一切口にしていない。
振り返る。地平線の一辺を覆う、黒々とした森。ネルが通り抜けてきた森だ。もう来るな、とも、早く戻ってこい、とも言っているように見える。けれどそれはネルにそう見えるだけで、森はただ森として黙りながら、同時にこの荒野を監視する門番の役割を果たしていた。
黒い森を見ていたのはネルだけでは無かった。
広がる大穴の向こう側、ちょうどネルと向き合うようにして、人が立っているのだ。
ネルは一歩あとずさろうとした。しかしあまりに突然で足が動かなかった。
「お前は、人か?」
人影は確かにネルに問いかけた。もし先に人の姿を見つけていなければ砂か石に話しかけられたのだと思っただろう。それほどにその声は人としての脈動を失い、大量の砂にかきむしられたようにかすれ切っていた。人影が男であろう事だけはかろうじてネルにもわかった。
「人ならば、すぐにここを離れろ。もし人でなければ、お前は何だ」
「人でないなら、私は何になれるというの?」
答えはすぐには返ってこなかった。男は色あせた服で全身を覆っている。帽子を深く被っているので顔はよく見えない。ただこちらを、ネルをじっと見つめている事だけは気配で感じ取れる。
「去れ。ここから失せろ」
声はネルの足元まで風に運ばれてきて霧散する。
そして、男のずっと後ろの空で、赤い旗がたなびいているのを見た瞬間、ネルの視界を覆い尽くしていた、透明な幕がぱっと消えた。何もかもが色を失うこの荒野で、旗の赤色だけがはっきりと目に焼き付き、同時に全ての物事の外郭を請け負っているようであった。
何かが近づいてきている。輪郭を得た沢山の音がそうネルに知らせる。森の方から現れた荷馬車は一台では終わらず何台かが後に続いている。目的地はここではなく、少し離れた場所らしい。
森と馬車がぐらりと傾いた。ネルは急激に疲れを感じて、身体に力を入れていられなくなり、穴の方へとゆっくり倒れていく。
あの人は、人間じゃないのかもしれない。
地面に飲み込まれる直前にそんな事を思って、ネルは目を閉じた。
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