旧称・五丈原の地にて

@Hermitage_ninja

第1話

中国陝西省、とある人民解放軍の演習所の南西で、旅行者と思しき国籍不明の男の遺体が3体発見された。丈の低い草の生える高台に、川の字に並べられていたのを巡回中の兵士が見つけてすぐ報告したものだ。この小さな事件は、少なくともその日の午前中兵士達の話題の種になった。


しかし、遺体の調査が進むにつれ、誰もが気味悪がって口にしなくなり、とうとうそんな事件があったことすら忘れられるようになってしまった。ニュースにはならなかった。地元民の住居は遠くにあったので、兵士達の他に遺体を見たものはいなかった。誰が死んだのか調べられることもなく、いつしかよくある噂話のように気味悪さだけを残して風化していった。


遺体の保存状態は劣悪であった。皮は半ば風化し、肉は完全に朽ちて落ちていた。これだけでも十分に気味悪いものであるが、身にまとった衣服が真新しすぎた。頭に巻かれたバンダナはまるで新品のようであったが、頭蓋にへばりついてとうとう剥がせなかった。その上、全身に漆のように黒い痣が蛇のような紋様を描いており、挙げ句皮膚に浮かぶ血管はなみなみと血液を湛えていた。軍医が注射針を刺した所、高圧洗浄機の如く鮮血が吹き出したという。心臓も筋肉も萎びているにも関わらず、である。


結局この遺体がどのように処分されたのかは分からない。誰も語りたがらないからである。この遺体は誰のものだったのか、そもそも原則民間人立入禁止の演習所付近にどうやって、いつ来たのか、そして死因は何であったのか。考えるほどに謎しか残らない。


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遺体発見から3日前のこと。


迷彩柄のジャケットを身にまとった3人組が、電灯すら持たず暗い野原を匍匐前進していた。この周辺が人民解放軍の施設であることは十分に理解している。見つかったら捕まってしまうし、国際問題になる可能性すらあった。だから素人なりに見つからないように、ハリボテのカモフラージュをしてわざわざ新月の夜を選び野山を分け入っているのだ。


彼らは日本から来た歴史研究者である。私立大学に研究室を持っているが、一向に芽が出ず、金欠に喘ぎながら歴史書をめくる日々を送っていた。一人は教授、一人はポスドク、残る一人は哀れな大学生である。


貧しい研究環境にヤキが回った3人はとうとう破れかぶれの策に出た。日本で知名度があり、研究が進んでいない分野、そして実地研究が難しい課題。ここで一発新発見でもすればこのどん詰まりを解消できるに違いないと選んだのは三国時代の旧跡であった。なけなしの金を叩いて中国に渡り、現地で気付かれないように準備を整え、片っ端から墓荒らし行為に挑んだのである。人民解放軍の許可を得るだけの手続きは待てなかった。金欠で尻に火が付いていたのである。


彼らが最初に選んだのは諸葛孔明が最期の大舞台、五丈原であった。史上最強の軍師が鎮座し、死後も統率した戦陣、五丈原。何も残っていないはずがないと決めつけた。例えば司馬仲達を欺いた木像、魏文台を誅殺した指令書、陣中栽培したとされる諸葛菜の畑そのものの跡、ここまで詳細な記述こそあれどういうわけか現物が未だに見つからない諸々のどれか一つでも見つけるため、3人はこの広大な高台に乗り込んだ。


時折演習所に駐屯する兵士達のかざすサーチライトが3人を掠めたが、幸運にして発見されなかった。今は草の覆う古戦場のいかなる痕跡も見逃すまいと、3人は暗闇に目を凝らしていた。マトモな研究員ならば鼻で笑うであろう、貧すれば鈍すとは良く言ったものだ。


不意に「あっ」と短い叫び声がした。学生がとうとう人為的な構造物の痕跡を見つけたのだ。2人は口に人差し指を当てながら、彼のもとに集まった。草が生えていてよく見えないが、生え際をよく見ると土の凹凸が太極図を描いている。半径100mほどであろうか、這いずり回って確認すると、まるで現代技術を用いて描いたかのような文字通り真円であった。

「こんな構造物が未発見とは驚いたな」教授が声を潜めてメモを取った。「しかしこれはなんだろう、何故ここにあるのだろうか」

「周りを見てみましょう」ポスドクが匍匐しながら外側に向かった。太極図が何かの儀式か建築物の中心だとするならば、祈願する内容に関連するものがその外側にあってもおかしくない。演習所のサーチライトが一切消え去ったことに、3人は気が付かなかった。


匍匐で周囲を調べるのは時間がかかったが、3人は時間を忘れて調査に夢中になった。太極図の50m外側に再び土の凹凸が見られるようになった。円ではない、何か象形文字のような、一見不規則な紋様であった。「先生、この文字に見覚えはありますか」「いや。梵字に似ているが…分からん」


文字は太極図の外側50mの円周上に等間隔で並んでいたが、真北、真東、真南、真西は代わりに少し大きめな穴が空いていた。文字のいくつかは凹凸が朽ちて崩れていた。「君たち、この崩れている文字を適当に直しなさい」カメラを構えた教授は2人に指示した。「えっ」「崩れていたのではインパクトに欠ける。完全な状態で見つかった方が話題になるだろ?」研究者としての矜持は金欠で擦り切れたらしい。


2人が文字の修復に勤しんでいる間、教授は東西南北の穴を調べていた。きっとこの穴は何かが建っていた跡に違いない、それらしいものが残っていれば写真に撮り、日本に持ち帰って研究の証拠にするのだ。匍匐すら忘れて探している内に…とうとう見つけた。4体の石像だ。彫りは雨風で削れてツルツルになっており、何の像だったのかは分からない。


「君たち、見給え。石像だ」「えっまた見つかったんですか」「幸先いいぞ、大漁だ」教授は石像を東西南北に建てて、誇らしげに2人に見せた。「こんな旧跡がありのまま残っていて、誰も調べていないなんてまさに奇跡だな。世紀の大発見――」「先生っ、崩れる!」不意に学生が叫んだ。彼は不意に足を滑らせ、恐怖の叫び声を上げると、太極図の中心まで高速で突進し…消えた。


「えっ」「なんで――うわぁ!」ポスドクも急に膝から崩れたと思うと、消えた。教授が目を見開いていると、とうとう彼自身も顔から地面に引きずり込まれ、落下していった。


3人が気がつくと、周りを土壁で覆われた空間にいた。壁には松明が掛かっており、煌々と辺りを照らしている。天井までは2mほど、彼らの目線の先には洞穴のような空間が伸びていた。後ろは壁だ。何が起こったかは分からないが、前に進むしかなさそうだ。


足元も壁も天井も土でできているが、触っても不思議と崩れる気配は全く無い。松明が燃えている以上、酸素はあるのだろう。どこからか先程の場所に戻れるに違いない。しかし、3人がいくら歩いても洞窟は延々続いており、いつまでも終わりが見えなかった。


どれほど歩いたか、急に視線が開けたと思うと、1辺1kmはあろうか、四角形のホールのような広い部屋に辿り着いた。3人は恐れおののいた。というのも、まるで兵馬俑の如く古い鎧が何百列にも渡って整列しているのである。ただ鎧と、右手に鉾が地面に立ったまま突き刺さっている。鎧も鉾も、2000年前の遺物とは思えないほど鋭い金属光沢を放ち、いやに生気立っていた。そしてその後ろには、木でできた牛のようなものがこれまた何百列と並んでいる。3人はそれらが所謂「木牛流馬」の現物だと気が付いた。


ホールのど真ん中は鎧も牛も並んでおらず、まるで太い道のようだった。3人は意を決してそこを歩き、牛をよく見ようとした。木牛流馬の実物が発見されたとなれば大ニュースである。今までは文献を参考にしたレプリカしか世に出回っていない。松明で明るく照らされたホールを歩き、「牛」を目の前にして、とうとう学生が恐怖のあまり跳ね上がり、失禁した。


それは「木牛」ではなかった。文字通り「牛」であった。皮膚は朽ち果て木の皮のようにささくれているが、鼻から蒸気を出し、ブルルと息を吐くまさしく生きた牛であった。巨大な荷車を牽いている両肩は骨と皮だけでありながら、網のような血管が浮き出て脈動していた。体表は先程太極図の外側にあったような謎の文字がみっちり描かれており、何かしらの呪術が用いられたことは明白であった。それが数千と目の前に鎮座していた。


「先生、あれは流馬では…?」ポスドクが指差すと、木牛の後ろにまたスライムのようなものが並んでいるのが見えた。タールのようなドス黒い液体のてっぺんに、たてがみのようなさざなみが見えた。液溜まりからこれまたうずたかい荷車が伸びており、これらもまた謎の文字がびっしり書かれていてぐるぐる動き回っている。


彼らはとうとう目的を達した。木牛流馬そのものを発見したのだ。これを全世界に発表すれば一大センセーションとなるだろう――恐慌と新秩序で全世界は崩壊するに違いないが。諸葛孔明が古跡から発掘された呪術を、彼らはもしかしたら全世界に解き放ってしまうかもしれない。これが孔明自身のものかを確かめる勇気は、彼らには既に無かった。


「見なかったことに、しよう」教授は乾いた唇から辛うじて絞り出した。「きっとこれは悪い夢だ」「先生、出口が見当たりません」「来た道を戻ればいいだろう」「先生、それが…」ポスドクが周りを見渡すと、鎧武者が全員3人の方に向き直っているのに気が付いた。鉾を右手に持ったまま、180度ぐるりと向きを変え、彼らを睨んでいた――彼らにはそう感じられた。見つめる目も鉾を持つ手もないのに――。


牛の息遣いが荒くなった。馬は姿を明確にし始めた、戦兜で頭を覆った筋肉隆々の大馬だ。主ならざる闖入者に、今まで通りの制裁を加えるべく、何万もの呪術が3人を取り囲み始めた。蜀漢にない衣服、蜀漢にない知見、蜀漢で見たこともない小道具を、異物達は検知した。それはきっと、蜀漢の敵の技術のはずだ。喜びを含んだ声が轟いた。


「「「大漢可以中興了」」」


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諸葛孔明はとうとう魔界に堕ちた。蜀の大将軍・魏延は元帥の体調よりも、鈍く光る目の奥を恐れた。姜維も引きずられているらしい、目の隈がシワのような紋様を描くようになった。酒で体を壊した張翼徳だってこんな隈はしていなかった。この前病に倒れた馬孟起だってこんな顔色はしていなかった。


明らかに人の業ではない。しかし楊儀に相談できるはずもない。そんなことをすれば反逆の濡れ衣を着せられ、自分の首は元帥よりも前に落ちるであろう。


糧秣は驚くほど速やかに、大量に送られてくるようになった。この、朽木だか骨だか分からない、牛のような何かが隘路を軽々踏破して持ってくるのだ。荷物を下ろせば、何も言わずもと来た道をおとなしく帰っていく。兵達は気味悪がったが、いかんせん刃も矢も通らないのではどうしようもない。


まるで長安陥落を急かされているような気がしてならない。しかし目の前にそびえ立つ司馬仲達の陣は、口惜しいが完璧だ。付け入るスキが一寸もない。決死の突撃を何度か意見具申したが、流石に却下された。しかしそれにしても、己の寿命が読める諸葛孔明にあって、とうとう鬼畜の術に手を付けたとあっては、歴戦の戦士魏延をしてぶるぶる震えるほど恐ろしいものがあった。


「漢升様、申し訳ございません」魏延は空を仰いで涙した。今夜もまた怪しい星が魏の陣地に落ち、豪炎の幻影を見せつける。諸葛孔明が妖術は、百里を隔てて司馬仲達軍を脅かしているのだ。「この魏文台、先帝の御意志、守れませなんだ」元帥の祈りと引き換えに地獄に引きずり込まれる蜀漢を目の前にして、最後の人間・魏延は成すすべもなく陣を守っていた。

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