第8話

 そんな辛くも平穏な日常は少しずつ蝕まれていたのだと気が付いたのは、ある日眠りに就こうとした瞬間のことだった。


「ママ?」


 何かを察した娘の前では「なんでもない」と言って振る舞い、彼女を寝かしつけたものの、その違和感はごまかしようがなく、私は胸を押さえた。

 胸部に違和感があったことは承知していた。しこりのようなものがあることにも気が付いていた。しかし、私はそれを見なかったふりをしていた。まさか、そんなはずはない。そう思って現実から目を背け続けていた。

 しかし、疼痛はもはやごまかしようがないレベルまで来ていた。私は集めた医学書を読み漁り、自分の身体に起こった症状について理解する。

 私はおそらく乳がんにかかっている。




 医療従事者とはいえ、あくまで看護師。正確な自己診断などできないし、検査などのやり方も解らない。しかし、自分の身体がもう長くないということは理解できた。

 死を覚悟したとき、初めに浮かんできたのは優希のことだった。あの子を、この孤独な世界に残して死ぬことなんて到底できない。この世界に一人残される娘を思い、私は涙を流した。

 しかし、終わりの瞬間は刻一刻と迫ってくる。

 私は熟慮の末、手紙を書くことにした。

 それは修司に宛てたメッセージだった。

 ここに至るまでの経緯。

 時が止まった世界での生活。

 優希の存在。

 私が体験したすべてを綴り、彼の服のポケットに忍ばせた。

 なぜ、そんなことをしたのか。

 私には予感があったからだ。

 私が死ねば、この世界は再び動き出す。

 根拠はない。しかし、この世界が停止したのは私の命が危機に瀕した瞬間であり、この世界で動けるのも娘の優希を除けば、私だけ。そう考えれば、私がこの世界を止めた真犯人と考えるのは、そこまで突飛な想像とも言えないはずだ。ならば、その犯人が死ねば、この世界が再び動き出す。それも荒唐無稽な考えと一笑に付すことはできないはずだ。

 また、優希がこの停止した時間の中で唯一、行動できるということもこの仮説を裏付けていた。

 彼女は力を持った私の娘だから、その力の一端を受け継いでいるのではないだろうか。だから、優希だけが唯一、私以外でこの世界で動くことができる。

 そこまで考えた、私は修司に優希のことを託すことに決めたのだ。彼は戸惑い、悲しむだろうが、私の話を信じる。それは誰よりも彼の性格を知る私が一番よく解っていた。

 もしかすると、この病は私に対する罰なのかもしれない。

 ふと、そう考える。

 自分の命可愛さで世界を歪めてしまった私を、神様がもう終わらせようとしているのだろう。

 優希を解放してやれ、そう言っているのだろう。

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