第5話

 時間が巻き戻るという想像をしたことはあったけど、時間が止まるという想像をしたことはなかった。


「こうなったとき、どうするのか、ちゃんと相談しとけばよかったね」


 私は身動ぎをしない彼の頬を撫でながらそう呟いた。

 私が触れている物体は動きだすのに、人間には触れたとしても時間の停止が解除されることはない。神様はどうやらとことん意地悪なようだった。

 時の止まった世界は孤独の世界だった。

 誰も私を見てはくれない。

 誰も私の名前を呼ばない。

 誰も私に触れてくれない。

 独りの私には世界はあまりに広過ぎる。


「もう、終わりにしていいかな……」


 そう言う私の手には台所から持ってきた包丁が握られている。

 三か月の間、どうにか事態を打開するために考え続けた。しかし、どれだけ考えても時を元に戻す方法は浮かばない。唯一浮かんだ方法がこれだった。

 ——私という存在を終わらせること。


「こうしたら、きっと元に戻るよね……」


 私は包丁を自らの首元にあてがいながら、うわ言のような調子で呟く。

 そうやって、自分の首を裂き、死ぬことでこの悪夢から覚める。そういう考えも確かにあったが、結果としてそのまま命を落とすことになったとしても、それはそれで構わないだろうという思いもあった。仮に死んだとしても、この孤独からは解放されるのだから。

 震える手で包丁を握りなおす。その切っ先を首先にあてがう。

 目の前に居る修司は私を見てはいなかった。


「ごめんね」


 そう言って、手に力を込めたそのときだった。


「うっ……」


 不意に、せり上げてくる何か。

 それは吐き気だった。

 胃がむかむかとして、私は思わず口元を抑える。

 今から死ぬのなら、吐き気など無視してもいい。そう考える自分も居るが、吐しゃ物をぶちまけて死ぬのはさすがに嫌だった。私は包丁を捨て、慌ててトイレに駆け込む。


「おぇ……」


 便器に顔を近づけながら、えづいて胃の中に残っていたものをすべて吐き出す。何度かそれを繰り返すと、胃のムカつきはようやく落ち着き始めた。代わりに体力を使い果たした後の強い倦怠感が襲ってきた。私は口をゆすいだ後、ふらふらの足どりでベッドに倒れ込んだ。

 なぜ、急に吐き気など催したのだろうか。死を選ぼうとした自分の身体からの拒否反応なのだろうか。

 次の瞬間、脳裏に浮かぶ考え。

 私は思わず、跳ねあがるようにベッドから身を起こしていた。

 そんなことがあるのだろうか。

 いや、あり得ない話じゃない。

 少なくとも確かめてみないことには。

 私は家を飛び出し、薬局へと向かった。

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