第6章 知覚の構造

1 すなわち、知覚という出来事は、「何かとして」の私たちが「何かとして」何かを知覚しているように現われるのです。

2 「何かとして」の私たちは無色透明な純粋な「主観」ではありえませんし、「何かとして」の何かは客観的な「実在」ではありえません。

3 例えば、「何かとして」の私たちにおいて、人間であること、男性であること、日本人であること、これまでの人生を経てきた誰々であること、これらと知覚を分けることは出来ません。

4 あるいは、身体的存在であること、精神的存在であること、実践的存在であること、社会的存在であること、とも知覚を分けることは出来ません。

5 また、「何かとして」の何かにおいて、赤いこと、固いこと、すべすべしていることといった性質だけでなく、“良い”匂いであること、食欲をそそる見た目であること、5年前に食べておいしかったこと、などといった個人的な感覚や記憶と知覚を分けることもできません。

6 このように、「何かとして」の私たちの関わり方は個人の主観的な関わり方とともに、歴史的・社会的、あるいは生物的な共通の関わり方も関係します。

7 そうでなければ、私たちはコミュニケーションをとることができないでしょう。一方で、主観的な面があることによって、共通の理解に合意することができず、コミュニケーションが成立しない場合もあります。

8 また、主体的であるということは恣意的であるということではなく、客体的面からも限定されます。そうでなければ、ただの妄想です。

9 例えば、私たちが普段「“りんご”として」知覚する果物を「“建物の材料”として」知覚することはないでしょう。

10 それは私たちがそのように判断するということ以前に、それに相応しくないものとして現れてくるからです。

11 逆に、山道に転がっている「“折れた枝”として」知覚するものを「“杖の代用”として」知覚する場合があります。

12 これもまた、客体的な面から知覚が限定されるということです。つまり、折れた枝がその形状から登山で疲労した私たちに対して杖の代わりになるものとして現れてくるのです。

13 そして、折れた枝が初めから杖として備えられていたかのように、私たちは手を伸ばすのです。枝が私たちを招いているのです。

14 また、それは私たちの身体の構造、たとえば直立二足歩行であることから、折れた枝の形状が杖として現れるのであることを考えると、その限定が相互的であることが分かります。

15 このように、様々な過程が相互に関わり合って出来事を形成し、そこから私たちは事後的に〈私〉、〈見る〉、〈もの〉、〈いま〉、〈ここ〉といった要素を分けるのです。

16 また、「私が物を見る」という出来事は、次の出来事の与件となります。例えば、「私が物をつかむ」というような出来事を生起させるのです。

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