第5章 出来事としての知覚
1 私たち人間もそうです。常に何かと出会いながら、絶えず新しく自己を形成しており、その形成において、出会ったものと自己を分けることはできません。これは知覚であろうと、行為であろうとそうです。
2 例えば、私たちは物を見るといいますが、私がいて、物があって、見るという行為が成立しているのではありません。実際に私たちが物を見るという時にはすでに出会っています。
3 可能性としては出会わないこともできたかも知れませんが、すでに出会っているのです。それも、対象と自己といった抽象的なものではなく、様々な連続した過程が関わっています。
4 そして、対象と自己だけではなく、環境を構成するさまざまな過程を含んでいて、いずれも分けることはできないのです。
5 「私が物を見る」という出来事の主体的な面、客体的な面、環境的な面といった方が正確かも知れません。
6 つまり、見るという出来事から私や物や環境が抽出されるのです。
7 そもそも出来事を離れた私は存在しません。関係が私たちの存在に先立ちます。しかも、その関係はカメラと被写体のような関係ではなく、視覚以外の感覚や同時に起こる感情といったものまで入り混じった、生々しい関係です。
8 このように、知覚とは外界の客観的な模写ではなく、相互的な関わり合いにおける主体的な表現というべきであるのです。
9 意味を与える働きと意味が与えられる働きが相互に関わり合うのですが、意味を与えるという点において、主体的であるということです。
10 そして、それに加えて、何を受容し何を排除するかを選択するということもそうですし、どのように分け、どのように総合するかということも知覚の主体的な性格を形成しているといえます。
11 それは私たちが日常的に「視れども見えず、聴けども聞こえず」という経験をしていることからも明らかでしょう。私たちは自覚する前にすでに意識の焦点を何かに当てており、その他を背景としているのです。
12 そして、その過程においては、何に焦点を当てるか、何を背景とするかという自覚に先立つ主体的な判断が行なわれているのです。
13 それは知覚において、私たちがすでに何者かであり、すでに何らかの枠組みや基準を通して関わるからです。
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