第19話

 ヘルトさんは身の危険を感じたかもしれないけど、それでもライニールさんを護ろうとして離れない。そんなヘルトさんの肩に男の手が伸びる。


 ――でも、その時、男は吹き飛んでいた。もちろん、師匠の仕業だ。

 短い詠唱で風を起こすと、男を吹き飛ばしてライニールさんのもとへ駆けつける。僕も慌ててその後に続いた。


「あ……」


 ヘルトさんは師匠を見て、涙をポロポロと流した。師匠はその涙に苦しそうに顔を歪める。


「……マズいな」


 師匠がそんなことを言うくらい、この毒は危ないのか。

 ヘルトさんの呼吸がヒュッと音を立てて止まった。でも、男たちは身軽なのか少し吹き飛ばしたくらいではまた戻ってきた。師匠はそちらに顔を向けたまま、ヘルトさんに向かって言った。


「ヘルト、ミセリコルデを貸してくれ」

「えっ」


 ミセリコルデってなんだったっけ?

 ――ああ、そうだ、騎士が持つ短剣のことだ。

 その用途は、最早助からない仲間を苦痛から解き放ち、速やかな死による救済を与えること。だから、慈悲の短剣って呼ばれている。

 師匠は、その慈悲の短剣で何をするつもりなんだ――? まさか、ね。


 ヘルトさんが尋常じゃなく怯えて首を振った。


「い、いや。隊長を助けて……」

「わかってる。助けるために貸せ」

「でもっ」

「助けたければ急げ。俺を疑うな――காசியோ ஃபியூக்」


 ヴァン、とまた風が敵を押し戻す。もっと強い魔術を放てばいいのに、師匠は加減しているみたいに思えた。


 ヘルトさんが取り出したのは、細くて先が尖った短剣だった。随分と小振りで装飾も綺麗だ。

 その時、完全なる傍観者だった僕の手を、師匠が急につかんだ。


「おい、レフィ」

「は、はいっ」


 眉間に皺を寄せたままの難しい顔つきで、師匠は短剣と僕の手とを握り締めている。


「状況が悪い。だから、少し我慢しろ」

「え?」


 師匠はその短剣で急に僕の腕を傷つけた。深くではないけど、僕は驚いて手を引っ込めそうになる。ズキ、と傷口が痛んで血が流れた。

 い、いきなり何を――。


 そうしたら、師匠は自分の手の平を切り、短剣を地面に放った。師匠は傷ついた手で僕の傷口をギュッと握り締める。

 傷口が熱い。カッと、焼けつくみたいだ。

 僕の中に何かが流れ込んでくる。


「俺の魔力を貸してやる。敵に向かって術を放て」

「そ、そんなのっ」


 僕に敵を退けろって言ってる?

 貸してやるって、そんなの、貸し借りできるわけないじゃないか!

 狼狽えている僕に、師匠は顔をしかめて厳しく言った。


「俺は解毒で手一杯だ。こいつらの処置を優先しないと手遅れになる。あっちはお前が蹴散らせ。とにかく、俺の集中を切るな」


 ヴァン、と光り輝く魔術陣が僕たちを囲むようにして広範囲に現れる。


「உங்கள் உடலில் இருந்து விஷத்தை அகற்றவும்――」


 師匠、この人数を一度で解毒しようとしてる?

 誰からと優先順位をつけられないくらい、皆が逼迫しているんだ。

 不思議と僕たちの血は流れ出ず、師匠の手の平から僕に熱が伝わるだけだった。


 力を貸してやると言った。

 伝説と謳われる師匠の魔力は無尽蔵なのか。こんな規模の術を展開しながら僕に力を貸すって――。


 そもそも、こんなことができるなんて話は聞いたこともない。

 凡才の僕が師匠の魔力を借りて術を放ったら、一体どの程度の効力があるんだろう。


 ――迷っている場合じゃない。

 僕は師匠の弟子だから。

 師匠がやることに疑問を差し挟んでいる場合じゃない。

 やれと言われたのは、師匠が僕にならできると信じてくれたからなんだから。


 敵は、僕たちが魔術師だとわかっても慌てているふうじゃない。それは僕がどこからどう見ても子供だからだろうか。

 僕の隣にいたヘルトさんが再び剣を手に立ち上がった。こんな状況でも自分にできることを探して動こうとする。強い人だな。


 僕もできることを精一杯やらなくちゃ。そうして、自由になる右手を敵に向けた。


「காற்று எதிரிகளை உதைக்கவும்」


 僕が起こせる風は、そよ風。そよ風よりは少しくらい強まったかなと思いたいようなもの。

 でも、この時僕が放った魔術は、師匠が洗濯物を相手に軽く起こしたものよりも強かった。ビュウッと夜気を裂く音が山に響く。敵はとっさに岩にしがみついた。


 師匠の魔力が僕の術を強化していて、僕にはほとんど疲労感がない。まだまだ行ける。


「வலுவான மற்றும் தீவிரமான」


 魔術の風は止む気配をみせない。男たちは飛ばされないようにつかまるので精いっぱいだった。


 こんなこと、僕ができるなんて。

 自分自身の力ではないとわかっていても、気分が高揚する。大きな力を持つと、人は何かを失うのかな。この時の僕は少し残酷だった。

 敵だから、どうなったって構わない。飛んでいってしまえばいいと思った。


 だって、この人たちがライニールさんを傷つけて、敵に情報を流そうとしたんだから、同情の余地はない。

 僕がさらに力を強めようとした時、ふと師匠が僕の手を放した。


「うぁっ」


 急に力が抜けた。これで僕はポンコツに逆戻りだ。


「もういい」


 いいんだ……。

 見ると、ライニールさんたちが起き上がるところだった。もう大丈夫なのかな?


 風にあおられ続けていた男たちはもうクタクタで、ろくに立っていられなかった。岩肌に膝を突く。

 毒から立ち直ったライニールさんたちはむしろ元気だ。疲労困憊の男たちを捕縛し始める。


「なんだ、このガキ。こんな子供がここまでの術を使えるほど、この国の魔術は発展したっていうのか? アルハーレンが消えたとしても、これは――」


 男がブツブツとそんなことを言うから、僕は大声で言ってやった。


「賢者アルハーレンは消えてませんよ! ちゃあんとピンピンしてます! なんていっても僕はそのアルハーレンの弟子なんですからね!」


 その途端、男たちがギョッとした。

 ハハ、いい気味だ。ライニールさんの部下の人たちまでびっくりしてるけど。


 ライニールさんがテキパキと男たちを連行する支度を整える中、師匠はまた僕の腕を無言でつかんだ。かと思うと、つぶやく。


「காயத்தை குணமாக்குங்கள்」


 パァッと明るい光が優しく、あたたかく僕の傷をたちどころに癒した。こんなかすり傷くらいいいのに。

 そのくせ、師匠は自分の傷は魔術で治さなかった。


「ありがとうございます」


 師匠を見上げると……あれ? もしかして疲れてる?

 グラグラと揺れていた。


「し、師匠、座ってください!」


 倒れて頭でも打ったら大事だ。いくら片づけができなくて家が汚い駄目な師匠でも、この頭の中身は国宝級なんだから。


 僕が無理やりその場に座らせると、師匠は走ってきた後みたいに軽く息を弾ませていた。


「お前……調子に乗って使いすぎだ」

「え? え、えっと」


 睨まれた。師匠の魔力、結構吸い取っちゃったのかな?

 自覚ないし。わかんないけど。


 思えば、ここまで長距離移動して来たんだ。それも僕を連れているから、いつもの二倍の力を使っているとして、それで複数の解毒をしながら僕に魔力を分けて――ああ、結構大変だったかも。


「す、すいません。でも、あんなことができるなんて知りませんでした。これって、僕じゃなくてもっとすごい才能のある人と組んだら、もっとすごいことができるんですかね?」


 僕ですら強力な術を使えたんだから、魔術師団の人とかと組んだらどうなるんだろう?

 素朴な疑問に、師匠は首を振った。


「あんなの、誰とでもできるか。むしろ血中の魔力濃度が高い方が入っていかない。まあ、実践したのは初めてだから知らないけどな。理論上はそういうことだ」

「それって、僕の魔力がスカスカだってことですかっ」

「うん」


 うん、じゃない。

 ちくしょう。


 僕が屈辱に呻いていると、師匠は僕の頭をノックするように拳でコンコンと叩いた。


「最初から、相性がいいのはわかっていたからな」


 相性? 魔力の?

 それとも、僕と師匠のコンビネーションが?

 よくわからないけど、それを言った時の師匠の顔が妙に優しくて、僕はさっきの失言を忘れてやってもいいかなって気にはなっていた。


 そこで休んでいると、ヘルトさんが駆け寄ってきて、何故だか急に僕に抱きついた。

 美人に抱き絞められて悪い気がするわけがない。顔が笑っちゃうけど、笑っている場合じゃない。


「ありがとう、レフィくん! あなた、すごいのね!」

「い、いえ、あれは師匠のおかげで……」


 自分の手柄のようには言えないから、僕は正直に言った。ヘルトさんは僕から手を放すと、師匠に頭を下げる。


「リュークさん、ありがとうございます。あなたが来てくださらなかったら、どうなっていたことか」


 ヘルトさんが本当に抱き絞めたいほど感謝しているのは師匠の方なんだろう。さすがに抱きつけないから僕の方に来たのかも。うん、役得だ。


 師匠は、目を潤ませるヘルトさんにため息で返した。

 町の女の人たちには優しいのに、ヘルトさんにはあんまり優しくない。なんでかなと考えると、ちょっと面白い。

 そこでライニールさんが来た。膝を折って師匠と視線の高さを合わせる。


「また助けられてしまったな。ありがとう。随分疲れて見えるが、歩けるか?」

「……だから、騎士なんぞ辞めてしまえ」


 いつも偉そうな師匠の声が弱い。相当疲れてるな。

 ライニールさんは困ったような顔になる。実際、困っているんだろう。


「それで私の身が護られたとしても、この国は誰が護る? リュークが魔術師団に戻ってくれるのなら辞めてもいいが」

「嫌だ。俺は自堕落に好き勝手生きるために戦って自由を勝ち取ったんだからな」


 伝説と謳われた賢者は、その後に待つ自堕落生活を自分へのご褒美に、国に平穏をもたらしてくれたらしい。

 ああ、聞きたくない。誰にも聞かせられないな、これ。


「リュークの隠遁生活のためには、それを補う兵がたくさん必要になる。私程度の人材でも必要になるんだ」

「それで死んでたら世話はないぞ」

「そうだとしても、それは私が望んだ生き様だ。リュークが自由を望んだようにな」


 にこりと笑っている。

 ライニールさんって穏やかだけど頑固かも。

 それだけ愛国心が強いんだろうけど、師匠やヘルトさんは冷や冷やしている。

 僕が口を挟むことじゃないのかもしれないけど、これだけはどうしても言いたかった。


「大事な人のためにできることがあるって、幸せなことだと思います。師匠には護れる力があるんですから、僕は羨ましいです。師匠、僕が一人前になったら代わりますから、それまで頑張ればいいんですよ。そうしたら、好きなだけ自堕落生活をしてくれたらいいです」


 気を楽にしてあげようと思って言ったのに、師匠はとんでもなく嫌な顔をした。


「この凡才馬鹿弟子が俺の代わりになるわけないだろ」


 凡才、馬鹿ってひどい。

 努力で魔力は補えないって言うんだろうけど、そんなの師匠が知らないだけかもしれないじゃないか。


 師匠の力を貸してもらったおかげで、なんか僕にもできることがたくさんあるような気がしてきたんだ。こういうところを師匠は馬鹿だって言うんだとしても。


「何かいい方法があると思うんで、それを見つけてみます。だから、師匠はそれまで時々は働いたらいいじゃないですか」

「お前なぁ」


 すると、ライニールさんがクスクスと笑った。


「頼もしい弟子が来てよかったな」

「よくない」


 ムスッとした師匠は、やっとのことで立ち上がると、僕の首根っこをつかんだ。


「疲れたから帰って寝る」

「リュークさん、本当にありがとうございました。また改めてお礼に伺います」


 ヘルトさんが深々と頭を下げる。でも、師匠はフン、とそっぽを向いて術を発動させた。

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