第9話

 あれから二度寝することもなく、僕は洗濯や朝食の支度をする。

 どうせ気が昂って寝れないし、もういいや。師匠は二度寝しちゃったんだけど。


「あれ?」


 棚の上の籠に卵が六個入っていた。昨日、使いきったと思ったのに。

 なんであるんだろう?


 山羊はいるけど、鶏は飼っていない。

 これ、なんの卵? 使っていいんだろうか?

 駄目ならこんなところに置かないだろうしなぁ。

 なんてことを考えながら、僕は先に洗濯物を片づけることにした。


 師匠はさ、掃除は嫌いだしずぼらなくせに服だけは一度袖を通すと洗うまでもう着ないんだ。だから、とっかえひっかえするためにか、服をたくさん持っている。しばらく洗濯しなくても困らないほどにたくさん。


 でも、一人暮らしの間に溜め込んだ洗濯物はどうしていたんだろう?

 まさか、一度着たらポイとかだったら嫌だな。たまにはやる気を出して洗濯してたと思いたい。


 僕は魔術で盥に水を張ると、石鹸水をそこに落としてガシガシと擦り洗いをした。

 ふぅ、空が青い。


 明け方のあれは、もしかすると夢だったんじゃないかって思えるほどの穏やかな天気に変わっていた。

 時間が経つにつれて、もしかして僕が寝ぼけただけなんじゃないのか、あれは夢だったんじゃないかって、そんなふうに思わなくもない。その方が納得できるくらいだ。


 師匠が見たこともないような術を使って、とんでもない怪鳥を追い払ったなんて――。


 でも、夢じゃないって僕にわからせてくれるのは、森の木々たちだ。嵐に遭ったような痕跡を残している。何本も木が倒れているんだ。あの時、僕は木々が倒れる音を確かに聞いて、感じていたんだから。あれは夢なんかじゃない。


 師匠はやっぱりすごい人――なんだと思う。

 多分。


 ゴシゴシゴシ。


 僕は終わらない洗濯物と戦いながら汗を拭った。そうしていると、向こうの方から二人の人影がこっちに向かって歩いてくるのがわかった。大きい人と小さい人だ。


「え? お客さん?」


 ここに客なんて来る?

 もしかして、僕みたいにアルハーレン様がいると勘違いして来た人かもしれない。そうじゃなきゃ、師匠に会う目的でわざわざこんなところに来る人がいるなんて思えない。


 ど、どうしよう? 師匠を起こすべきかな?

 起きるかなぁ。起こせる自信がないなぁ。


 僕は洗濯を中断し、顔が見えるところまでやってきた二人を迎える形になった。二人は、おそろいの服を着た男女だった。おそろいって言うのも変かな。あれは制服だ。


 ん? あの胸の紋章って、騎士団じゃ――。

 背の高い男の人は師匠と同じ年頃かな。鳶色の髪と目をしていて、いかにも誠実そう。甘い顔立ちなのに体は引き締まっていて、これは女の人にキャアキャア言われて生きてきたと思われる。


 その連れは、これまた綺麗な女の人だ。すごい美人。金髪をきっちりと隙なく結い上げている。灰色の瞳は知的だし、品もあって、どこかの貴族令嬢に見える。でも、騎士団の制服を着ているんだから、騎士なのかなぁ。


 騎士なんて、僕には縁のない人たちだ。だって、エリートだし。庶民は直接かかわらないから、僕は二人に対してどう話したらいいんだかわからなかった。

 ただ緊張して突っ立っていた僕に、女の人が不思議そうに言った。


「あら、子供が……」

「ああ、どこの子だろう? リュークのことだから、無断でここに立ち入らせるわけはないが」


 師匠のことを知っている? リュークって、親しげに呼んだ。

 僕は驚いてその騎士様を見上げて口を開いていた。


「ぼ、僕はリューク・ファルハーレン様の弟子になりました、レフィと言います。騎士様たちは師匠に会いに来られたのですか?」


 すると、二人はこれ以上ないほど目を見開き、そうして瞬かせた。

 ――何その反応?


「リュークの? まさか、な」

「ええ、彼が弟子を取るなんて……」


 まあ、師匠のあの性格じゃびっくりされるのも仕方がない。

 コミュニケーション能力低いし、教え方下手だし。ずぼらだし、だらしないし、わけわかんないし。


「僕が初めての弟子だって言われました」


 そう言うと、二人は感心したようにパチパチと拍手をくれた。

 ……だから、何それ。


「そうか、本当にリュークの弟子なんだな。いや、たいしたものだ」

「弟子なんて絶対に取らないと仰っていたのに、それを覆させたんですから、よほど見どころがあったのでしょうね。将来が楽しみです」


 え? ええ?

 い、いや、僕、才能は並だって言われてるから。過度の期待はご遠慮頂きたい。


「ええと、レフィだったね? リュークはいるかな?」


 にっこりと爽やかな笑顔をくれた後、騎士様はああ、と小さくつぶやいた。


「すまない、まだ名乗っていなかったね。私はライニール・メイツ。騎士団第六中隊隊長を勤める。こちらが副隊長のヘルトルーデ・ヒディンクだ」

「メイツ隊長とヒディング副隊長ですね!」

「そんなに畏まらなくてもヘルトでいいわ」


 ヒディング副隊長――ヘルトさんはそう言って微笑んでくれた。やっぱり美人だなぁ。こんな綺麗な人、見たことない。それなのに騎士なんて勇ましいんだ。


「私も名前で呼んでくれたらいい。リュークとは友達なんだ」

「友達、ですか……」


 師匠にこんな立派な友達がいたなんて意外だな。正直に言ったら怒られそうだけど。


「師匠なら寝ています。その、明け方に風を起こす大きな鳥を追い払ったんです。疲れたのかもしれません」


 まだ寝ていることに関して僕がそれとなくフォローする。でも、ライニールさんとヘルトさんは顔を見合わせた。


「リュークがそれくらいで疲れるかな? 単に眠たいだけだよ。きっと遅くまで本を読んでいたんだろう」


 なんて言って笑っている。あ、もしかして信じてない?

 僕が言う大きな鳥ってのがせいぜい白鳥くらいだと思ってるんじゃないだろうか。


「いえ、すっごいお屋敷みたいに大きな鳥だったんですよ! そんな簡単じゃなかったはずです!」


 大きく手を広げ、僕は身振り手振りであの鳥の大きさを伝えようとした。でも、ライニールさんはそんな僕を不思議そうに見ている。


「まあ、普通の魔術師だったら大事おおごとではあると思うが、リュークは規格外だから。それはレフィだってわかっているだろう?」

「え?」

「リューク・ファルハーレン――もしくは、アルハーレン。国王陛下からその功績を称えられるほどの魔術師は他にいない」


 もしくは?

 もしくはアルハーレン?


 ライニールさんの言っている意味が、僕にはよくわからなかった。

 師匠は、伝説の賢者とよく似た名前の魔術師だ。もしくはアルハーレンって、何?

 ヘルトさんは呆然としている僕に気づいたみたいで、ライニールさんの袖を軽く引いた。


「あの、もしかして彼はまだ知らなかったのでは……」

「え? リュークの素性をか? 弟子なのに?」


 そんなことがあるのかとでも言いたげだ。あるんですよ、それが。


「し、師匠は、僕が『リューク・アルハーレン様ですか?』って訊ねたら、違うとはっきり仰いましたよ?」


 僕は震える声で言った。頭が上手く働かない。

 ライニールさんは苦りきった顔になる。


「ええと、リュークの本名は『ファルハーレン』だ。けれど、周知されているのは『アルハーレン』という名の方だ。それは、リュークがわざとそう名乗っていたからで……」

「な、なんですか、それ?」

「いえ、『リューク・アルハーレン様ですか?』と訊ねられた時にはっきりと、違うと答えるためだとか以前仰っていましたけれど、どこまで本気なのだか」


 ――師匠は、伝説の賢者?

 よく似た名前の人じゃなく、本物?

 僕は自分でも知らないうちに伝説の賢者の弟子になっていた?


 うわぁ、と声が漏れた。

 嬉しいとか、興奮するとか、そういうことでじゃない。本当に、うわぁとしか言いようがない。


 あれで伝説の賢者?

 ずぼら・だらしない・意地悪の三拍子そろった師匠が、伝説の賢者――。

 国の人々が尊敬してやまない魔術師。


 僕はライニールさんとヘルトさんを見上げた。

 どうか嘘だと言ってください。僕をからかっただけだって。


 だって、憧れの存在が人だって、拍子抜けもいいとこじゃないか。

 もっと立派で、高い志と慈愛の心を持っていて、たゆまぬ努力を続けていて、ほら、とにかくパンをネズミの形にしてネズミの丸焼きとか子供みたいなことをする人じゃないはずなんだ。


「え――!」


 結果、僕は不満げとしか受け取れない声を上げていた。そうしたら、いつの間にか着替えて身支度を整えていた師匠が僕の頭をどついた。


「うるさい」

「し、師匠……」


 僕は師匠の整った顔を恨みがましく見上げた。


「師匠、アルハーレン様じゃないって言ったじゃないですか!」

「だから、俺はファルハーレンだって言ってるだろ?」

「聞きましたよ! 師匠はわざとアルハーレンって名乗ってたそうじゃないですか!」

「いいだろ、俺の名前なんだから」


 小憎らしい表情だ。鼻で笑われた。


「じゃあ、最初から、『魔獣や敵兵を退けて、国に平穏をもたらした魔術師はあなたですか?』って僕が訊いたら、素直に答えていたんですか?」

「そうだな。俺は嘘はつかん」

「嘘だ、そこから嘘だ!」


 僕が騒ぎ立てると、師匠は耳を軽く手で遮り、鬱陶しそうに言う。


「いつまで客を立たせておくつもりだ? 茶くらい淹れろ」


 それを言われると黙るしかない。僕は納得がいかないながらに気持ちを抑えるしかなかった。

 ただ、ライニールさんとヘルトさんはというと――。


「茶を? 今日は珍しいことを言うな。座る場所はあるのか?」

「ええ。まず扉が開くのでしょうか?」


 師匠が二人を睨んだけど、それを言われるのが心外だって思っているなら、さすがに図々しすぎる。


「僕が片づけたから大丈夫です。どうぞお入りください」

「それは大変な苦労だったな。あの片づけは修行でも何でもない。ただの苦労だ。よく頑張った」


 ライニールさんがうんうんうなずいている。わかってくれますか、この苦労を。


「お前な」


 師匠に怒る権利はないと思うけど。

 二人は恐る恐る台所までついてきた。

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