第8話

 そうして、師匠が言うところの天候が崩れる『明日』になった。

 本当に明日になり立て。未明って言った方がいい。鶏が鳴くより早いんじゃないかなって時間。


 まだ暗くって、僕は寝ていた。カタカタ、と風がこのオンボロ小屋を揺らす音が耳障りだけど、僕はそれでも夢うつつだった。

 それがどういうわけだか、毛布に包まっていた僕の肩を師匠がゆさゆさと揺すっている。


「おい、起きろ」

「えぇ?」


 僕は寝ぼけまなこを擦った。なんで師匠はこんなに早く起きたんだろう?

 いつもなかなか起きないから、朝が苦手なんだとばかり思っていた。こんなに早く起きることもあるらしい。


 薄暗いけど、師匠はどうやって出したのか光の球を部屋に浮かべていて、ほんのりと明るい。だらしないくせにいつも身支度だけはちゃんとする師匠だから、寝間着も着替えて髪も結っていた。


 師匠はにっこりと笑っている。


「昨日、指導をお願いしますって言ったろ? 今からやるぞ」

「へ?」


 『後でな』って言った。その後でが日を跨ぐなんて、普通は思わない。

 晩御飯を食べてくつろいで、風呂に入って、ああ、あれってはぐらかされたんだなぁって納得して寝たのに。明け方になってやるぞと言われる、この状況――。


 これって気分屋で済ませていいの? なんなのこの人。

 僕、とんでもない人に弟子入りしたんだなぁって改めて思った。


 ガタガタ、ガタ。

 風がどんどん強くなる。昨日はあんなにいい天気だったのに、師匠が言った通りに荒れてきた。すごい風だ。

 こんなボロ小屋、飛ばされちゃうんじゃないかな。大丈夫かな?


 そんなことを考えつつ、なかなか起きなかったら膝で踏まれそうになった。


「お、起きます、起きますって!」

「二秒で起きろ」


 ピョン。

 文字通り飛び起きた。

 そうしたら、師匠は僕の粗末な寝間着の首根っこをつかんだ。


「よし、外へ行くぞ。風が強いからな、飛ばされるなよ」

「え? 外って、風が強いんだから行かなきゃいいじゃないですかっ」


 なんでこの暴風の中、敢えて外へ出るんだか。


「あっ、長老は?」

「もう中に入れてある」


 それなら尚更、なんで外に出るんだ?

 でも、師匠は有無を言わさず僕を連れて外へ転移した。

 その途端、激しい風に僕は足元をすくわれそうになった。僕、寝間着のままなんですけど!


 体重の軽い僕は本当に飛んでいきそうだ。踏ん張れない。

 雨は降らないけど、風だけがひどかった。


 僕はつかまれるものが他に何もなくて、師匠の腕にしがみついた。そうしたら、師匠は無情にも僕を引きはがした。


「しがみつくな。邪魔だ」


 自分が連れてきたくせに!

 もう駄目だ、飛ばされる――そう思ったら、急に風が弱まった。


 いや、弱まったんじゃない。

 相変わらず、森の木々は枝葉を大きく揺らしている。僕だけが風にあおられにくくなった。


 僕だけじゃない。師匠は最初からそうだ。

 そよ風を受けている程度にしか髪がなびいていない。なんだこれ?


「し、師匠、これ、なんですか?」

「うるさい。しばらく黙ってろ。今に来るから」


 師匠は素っ気ない。


 うん? 来る?

 誰が? この時間に、この嵐の中に?


「誰が来るって言うんですか、こんなの――」


 と、僕が騒ぎ立てると、薄暗かった空がさらに暗さを増したような気がした。また夜に逆戻りしたみたいに。


 暗い。闇の中、ビュウビュウと風の音だけが響く。その音がひと際大きく、まるで風が近づいてくるような、そんな感覚だった。


 バサァッ。


 鳥の羽音に似た音がした。それにしては大きすぎる。

 でも、その音がした瞬間に風はさらに強まった。師匠が僕たちの周りだけ風を弱めるような、何か特殊なことをしているとして、それでも僕はよろめいて尻もちをついてしまった。


「いって……」


 思わずぼやくと、その時、僕は夜のような空に輝く金色の目を見てしまった。それは鋭く僕たちに向けられている。


「あ、あ、あれはっ」


 バサァッとまた羽音がした。風が巻き起こる。

 金色の目の持ち主は、貴族の屋敷みたいに大きな鳥だった。黒ではなく、明るいところで見たら鷲のような羽の色をしているんじゃないだろうか。

 あの鋭い鉤爪と嘴には、多分戦牛だって敵わない。僕みたいな子供は、この怪鳥の腹の足しにもならないはすだ。


 師匠ははぁ、と小さく嘆息した。


「ウィントブラーヒ。あの鳥は羽ばたくと風を起こす。鳴き声が聞こえたから、近いうちにここも通ると思ってな」


 鳥というか、怪物レベルだ。こんなのが町や村に来たらひどいことになる。

 僕の考えが読めたのか、師匠はウィントブラーヒに目を向けたままで言った。


「町や村は、こいつの嫌いな臭いがするアルガの木を使って家を建てている。そちらにはまず行かない」

「じゃあなんで師匠の家はその木を使ってないんですか!」

「使ったって一軒しかないんだから効果がない」

「じゃあ、周りにたくさん植えておけばよかったじゃないですか!」

「嫌だ。アルガの木は実をつけると虫がよく寄ってくるし」

「こんなデカい鳥が寄ってくらいなら、虫くらい可愛いでしょうが! こんなボロい家、吹っ飛びますよ!」


 半べそを掻きながら喚く僕に、師匠は一瞥をくれただけだった。それも、うるさいな、という目だった。


 師匠は、ウィントブラーヒを見上げると、軽く肩を揺らした。そうして、さて、とつぶやく。


「おい、レフィ」

「は、はいっ」

「よく見ておけよ」


 見て? 何を?

 師匠が右腕をふわりと持ち上げる。何をするつもりなんだろう?

 やまない風の中、師匠の歌うような声がした。


「காற்றைத் தடுத்து விரட்டுங்கள்――」


 聞いたことのない呪文だった。

 ブワン、と光り輝く魔術陣が師匠の前に描かれる。

 その魔術陣は、もしかすると師匠の部屋にあった本の中に描かれていたものだったかもしれない。僕にはまだ難解すぎてその欠片すらわかった気にもなれないけど。


 魔術陣はクルクルと回転し、徐々にその輪を広げていく。広がった魔術陣は、師匠の家と僕たちが立つところをすっぽりと包むほどになった。足元が照らし出され、空の暗さを忘れるほどに見通しがよくなる。


 僕に背を向けている師匠が今、どんな表情でいるのかは見えない。でも、こんな規模の魔術陣を僕は見たことがなかった。学校の先生だってこんなことはしない。


 この術がどういうものなのか、そんなことはわからないけど、これが並大抵のことではないって、それくらいはわかる。魔術陣の上にいるだけでビリビリと痺れるような魔力を感じるんだ。


 背筋がうすら寒くなる。なんだ、これ。

 この人は、師匠は、一体――。


 ギィェエッ。


 怪鳥が大声を上げた。大きな翼を広げると、森の木が何本かへし折られた。本当に、この鳥そのものが嵐みたいだ。木が倒れる轟音を聞きながらそう思った。


 地面が揺れる。尻もちをついたままの僕にはそれがよく伝わった。

 起きなきゃと思うんだけど、腰が抜けたみたいにして力が入らない。


 怪鳥はバサッ、バサッ、と羽ばたき、空高くに舞い上がる。その姿が遠のいていくと、ようやく昇り始めた太陽が僕たちを照らしてくれた。


 風は完全にはやまなかったけど、もう立っていられないほどじゃなくなっている。

 師匠は首を左右に回してから僕の方を振り返った。


「ほら、よく見てただろうな?」


 見て――見てましたけど、見てただけです。


「見たって全然わかりませんよっ。師匠、何したんですか?」


 師匠は疲れた素振りも見せず、ただ瞬きをした。


「見たのにわからないって?」

「い、いや、だって、あんなのわかりませんって」


 僕がおずおずと言うと、師匠はこれ見よがしにため息をついた。


「だから、昨日言っただろ? 元素を混ぜ込んで術を放つって。まず、家と俺自身には風耐性の術を事前にかけてある。お前にも少し分けてやった。ウィントブラーヒを追い払った術は、四元素全部使って互いを相殺して『無』を作り出して、純然たる魔力だけをヤツから吸収したんだが」

「……師匠、残念ながら仰っている意味が全っ然わかりません」


 四元素で相殺? 魔力を吸収?

 何それ? なんなのそれ?


 僕の頭にある術式が全部ガラクタなんじゃないかって気分になるほど、師匠の言うことやること全部が僕からしたらデタラメだった。

 もう、頭の中がぐちゃぐちゃで、混乱して、僕はあ――って大声で叫ぶと頭を抱えてその場に転がった。


「お、おい、どうした?」


 師匠の方が珍しくびっくりしたみたいだ。

 でも、僕は打ちひしがれた。


 だって、師匠の術の原理がまったくわからない。僕は少しくらい優秀だって自負があったのに、やっぱりそうじゃなかった。

 師匠に言われた通り、才能がない。凡才だ。


 こんなだから学園にも入れなかった。推薦状をもらえたヤツらなら、今の師匠の術を見て何かに気づいたり、知ることができたかもしれないのに。

 僕はなんにも学べなかったし、理解もできなかった。


「師匠、僕、僕……心が折れました」


 ふぇぇぇと泣いてしまった僕に、すっかり風がやんだ中で師匠は頭を掻いた。


「なんでだ?」

「なんでって、あんなの全然理解できないです。僕の才能なんてミノムシくらいにしかなかったんです。師匠みたいな人でも職にあぶれてるのに、僕程度の才能で魔術師になりたいなんて、そんなの、あんまりにも馬鹿げてましたよねっ」


 そうしたら、何故かおなかに師匠の爪先が飛んできた。げふっ。


「誰があぶれてるって? 俺は一生分の蓄えがあるから隠居してるだけだ」


 あ、なんか怒ってる。職にあぶれてるってのが気に入らなかったらしい。

 その年齢で一生分の蓄えって、一体何したんだよ?

 僕が痛みから恨みがましい目を向けたせいか、師匠はばつが悪そうに言った。


「あのな、実は今見せた術は、お前じゃなくても理解できない」

「へ?」

「そう簡単な術じゃないからな。お前が学んでいたっていう、村の学校の知識じゃわからないのは当然だ。人間相手に放つわけにもいかないし、見せる機会もあんまりないから、一度見せておいて損はないだろうと思ってな」


 それを聞いて、僕の体から力が抜けていった。


「そう、だったんですか……」


 僕が特別馬鹿だとか才能がないとか、そういうことじゃないらしい。

 太陽が昇ったせいもあり、僕の心も同じように明るくなった。


「じゃ、じゃあ、僕もいつかあんなふうにできる日が――」

「さあ? お前の才能は並だからな。まあいつかは教えるけど、できるかは知らない」


 乾いたはずの涙がまた頬を伝うのは、師匠が意地悪だからだ。

 それにしても――。


 師匠って、本当はすごい魔術師なんだ。

 正直に言うと、ちょっと疑っていた。でも、腕だけは信用できるんだってやっと思えた。


 本当はすごい人。

 でも、それならなんでこんな森の中に隠居してるんだ?

 この才能をどうして眠らせておくんだろう。師匠は、一体何を考えているのかな?


 僕なら間違いなく魔術師団に入るのに。そこで偉くなるのに。

 一生分の蓄えがあるって言うけど、そんなたいした額じゃないはずだ。だって、こんなオンボロ小屋に住んでるくらいだから。


 ――師匠って、本当にわけがわからない人だな。

 それを再認識した。


 でも、僕がそんな師匠のことを正確に知るまでに、そう時間はかからなかった。

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