第5話

 その日、僕は廊下で寝るはめになった。何故かというと、他の部屋が汚いからだ。

 明日、他の部屋を掃除したらそっちを使っていいって。


 もしかすると、家を綺麗にしたいがために弟子を取った? ――そんな疑惑が拭えない。

 しかしだ、師匠がずぼらで大雑把であったことが幸いしたとも言える。


「俺が神経質だったら、小汚い子供が家の前に倒れていてもベッドになんて寝かせてやらなかったぞ。家にも入れなかったな、きっと」

「…………」


 森の中を歩き続けていた僕は、それを言われても反論できない程度には薄汚れていた。風呂へ入らせてくれたのにも感謝はしている。

 そう、そこでも驚いたことがあった。


「風呂は沸いてる。好きに入れ」

「え?」


 またどこかに消えていたと思ったら戻ってきた師匠にそんなことを言われた。師匠よりも先に入るなんて恐れ多いと驚いたわけじゃない。


「風呂って、風呂桶に水を張らないと」


 風呂を沸かすのはかなりの重労働だ。僕なら一度の術で最大バケツ三杯分くらいの水を出せるけれど、それを繰り返すとへとへとになる。ましてやお湯を出そうとしたらもっとつらい。

 師匠は平然としたものだった。


「張ったし、沸かした」


 部屋は汚いけど、師匠自身は身綺麗だ。髪もサラサラと流れるようだし、肌も滑らか。掃除はせずとも自分を磨くことは苦にならないのかもしれない。


「お先に頂いてもいいんですか?」


 おずおずと言うと、師匠は軽くうなずいてみせる。


「俺は読みたい本があるからな」


 風呂もきっとカビだらけで汚いんだろうなと思ったら、そこまでひどくなかった。ここだけむしろ綺麗だった。汚い風呂に入っても汚れるから嫌なのかもしれない。


 それにしても、短時間で沸かしたとは思えないようなお湯が、陶器の風呂桶に並々と張られている。手を入れてみると、確かにお湯だ。

 僕は急いで体を洗って風呂を出た。近くに山積みにされている洗濯物を見て見ぬふりをして乗り越え、部屋に戻る。


「師匠、どうやってあの短時間で風呂のお湯を用意したんですか? 明日、是非見せてください!」


 髪もろくに拭かないまま、頬を上気させて言った僕に、師匠は椅子にゆったりと腰かけながら微笑んだ。


「明日からはお前の仕事だ。断る」

「えぇっ! 師匠なら弟子にやり方を教えるものじゃないんですかっ?」

「じゃあ、教えたらできるんだろうな? 間違いなくできるなら教えてやる」

「そ、それは……」

「基礎もすっぽかしていきなりできるのなら、何も弟子入りなんぞしなくとも十分だな」


 これをすべて笑顔で言うから、性格が悪い。

 僕はへこたれた。


「わ、わかりました。じゃあ、まずは地道にやります」


 一度に出せる水はバケツ三杯の僕が、風呂桶を満たすためには何回術をかけなくちゃいけないんだろう。

 それを繰り返すうちにコツをつかんであっという間にできるようになる――といいんだけど。

 うん、頑張ろう。


 気を取り直した僕は、その後毛布一枚を渡されて廊下に転がされた。

 が、まあここは我慢だ。疲れていたこともあって僕はすぐさま眠りに就いた。



     ☆ ★ ☆



 僕は朝日と共に目覚めると、掃除をした。そうして、パンを焼き、ハムを切る。もちろん、ネズミ型に切ったりはしない。

 遅れて起きてきた師匠は、ぼぅっとしていた。寝起きがよくないようだ。昨日は綺麗に整えてあった髪がぼさぼさで顔にかかっている。


「師匠、朝食ができてます! 掃除もしました!」


 デキる弟子であることをアピールしてみるけど、師匠はぼぅっとしたまま食卓の席に着き、それから僕に目を向けたままで固まった。


 ――なんだろうか、この間は。

 もしかして二度寝だろうか。

 しばらくして、師匠はハッと意識を取り戻した。


「あ、そうだ。昨日から弟子を取ったんだった」


 このガキは誰だったっけ? とか考えていたらしい。ひどい。


「忘れないでください。まだなんにも教わっていません」


 そう言ってから僕が席に着こうとしたら、師匠が向かい側から僕の椅子を蹴飛ばした。


「な、なんですか?」

「毎朝、山羊のミルクを飲んでる」

「絞ってこいと?」

「そうだ」

「……行ってきます」


 弟子というのは本当に雑用係だ。これで大したことを教えてくれなかったら逃げてやる。

 僕はガラスのボウルを手に外へ出ようとする。が――。


「この壁を突っきればすぐだぞ」

「…………」


 壁を指さす師匠を躱し、僕は表に出た。

 のっそりのっそりとした山羊が草を食んでいる。のんびり穏やかな山羊なら平気だろうって、僕は相手を侮っていた。それを山羊が察したのかどうかはわからない。


 横にしゃがみ込んだ僕に、山羊は尻を向けたかと思うと、その後ろ足の丸い爪が僕の額に向かって飛んできた。


「うわぁっ!」


 間一髪で避けたものの、僕は草の上にひっくり返った。受け身も取れずに転がった僕が山羊を見遣ると、逆光になった山羊の目が爛々としていて悪魔に見えた。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。

 前足がカッ、カッ、と地面を蹴る。そんなにイライラしないでほしい。


「い、いや、あの、僕、レフィっていって、ここに住むことになったんだ。だ、だから、その、怪しい者じゃ……」


 何故、山羊を相手に弁明することになったんだ? そもそも通じているのかな。

 地面に転がってもがいていると、いつの間にか師匠がそばに立っていた。ぼさぼさ髪が整えられている。


「何を遊んでるんだ?」

「あ、遊んでませんよ! 僕は真剣にやってます!」

「ふぅん」


 それだけ言うと、師匠は気が立っている山羊の背を撫でた。


「すまんが、今日も頼む。これからはこいつが乳絞りをするが、まあ少々下手でも許してやってくれ」


 すると、山羊は言葉の意味がわかったかのようにしてメェ、と鳴いた。師匠には随分懐いている。

 師匠は僕に目で合図をした。僕は慌ててボウルを山羊の腹の下に置き、恐る恐る乳絞りを始めた。


「そんな手つきじゃいつまでかかるかな。手早くやれ。山羊にも負担だろ」

「は、はい」

「指で上から絞めていけ」

「こ、こうですか」

「そうだ。少しはマシになった」


 弟子になって最初に教わったことが山羊の乳絞りというのも複雑だ。

 ジャッ、ジャッ、と音を立ててミルクを絞り、カップ二杯分くらい溜まったら勘弁してくれた。


「よし、朝食だ」


 やはり師匠は扉を使わず、その場から掻き消えて台所に戻った。僕はミルクを零さないようにしてゆっくり歩いて戻るしかない。


 師匠は絞り立てのミルクを温め、そこにハチミツとシナモンを少し入れてくれた。これが美味しかったから、さっきの苦労も報われたような気がしないでもない。


 朝食を終えると、皿を片づけながら僕は師匠に訊ねる。


「あの、師匠。……僕って、魔術の素質はあるんでしょうか? どれくらいのことができるのかお見せした方がいいですか?」


 素質があると思ったから弟子にしてくれたんだろう。

 でも、弟子入りを許された決定打がシチューだったことを思うと、ただ単に雑用をさせたかっただけかもしれない。

 ――限りなく不安なんだ。


 師匠は何やら髪がひと房跳ねているのが気になって仕方がないらしい。指先に髪を巻きつけてクルクルとねじりながら言った。


「別に見なくてもわかるからいいけどな。素質なぁ……。並くらいにはあるんじゃないか?」


 ざつな返答をくれた。

 『並』だそうだ。涙が出そう。

 いや、実際に泣いていたかもしれない。


「し、師匠、その『並』というのは努力すれば補えるんですよね? ね?」


 思わず机に手を突き、師匠を問い詰める。補えると、そのひと言だけがほしかった。

 なのに、師匠はあんまり熱の籠っていない声で言った。


「そんなの、生まれつきだろ?」


 師匠の辞書にはフォローという言葉がなかったらしい。トドメを刺されただけだ。

 僕の瞳にはこぼれんばかりの大粒の涙が浮いていた。でも、師匠は気にせず続ける。


「魔力が人のどこにあるものなのか知っているか?」


 どこにって、不思議なことを訊くな?

 僕は無言で首を振った。師匠は小さく嘆息する。


「血だな。血に、魔力は宿っている。だから後天的に増えることはまずない」

「そ、そんなの初耳ですけど?」

「まあな。それを言ったら学園の運営が成り立たないからな。運営のためには努力次第だと言うしかない大人の事情だ」

「…………」


 わかりたくもない事情だ。


「その『並』の素質ででき得る最上の魔術を教えてやるつもりはある。それでいいだろ?」


 複雑な胸のうちをどう説明していいものやら。上手く言葉にならない。

 そもそも、偉そうに語る師匠の実力がはっきりと目に見えないからかもしれない。


 なんとなく、もしかするとすごいのかもしれないという気になるだけで、まだ目の当たりにしていない。あの移動法も、もしかすると何か特殊な道具を使っているという可能性もある。


「師匠の魔力はどれくらいなんですか?」


 魔力は目に見えない。未熟な僕には感じ取ることもできないんだ。

 だから素直に訊ねてみたけど、師匠がまともに答えることはなかった。


「さぁな。お前よりは上だとだけ言っておこう」


 笑ってはぐらかされてしまった。

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