第4話
今度は一度部屋に入った以上、まず扉周りの本から片づけることにした。
分厚い本というのは重たい。あまりたくさん持てないけど、僕は本を抱えては退け、なんとか扉が開くようにした。それから、魔術でバケツに水を溜めると、埃を被った棚を拭き、そこへ本を片づける。
あまりにも本が多くて、これだけで日が暮れそうだ。
本のほとんどが魔術書だった。リュークさんが簡単にこなす転移の魔術もこの本のどれかに原理が書かれているんだろうか。
学校の先生でもあんなことはしなかったのに。出入りは扉からしていたのに。
本を開いてみたい誘惑に耐えながら、僕は一生懸命に掃除をした。この寝室らしき部屋だけで一日を費やし、それでも完璧に終わったとは言い難い。ベッドシーツは一体いつ干したのか、それだけは聞きたくないや。
必死で掃除をしていたら、すっかり日が傾いていた。この時間からまた森をさまようのは嫌だけど、泊めてくださいとはさすがに言えない。リュークさんは得体が知れないから、ここが安全とも思えないし。
僕がそんなことを考えていると、いつの間にやら部屋の壁際にリュークさんがもたれかかっていた。
「綺麗にはなったが、本の整頓がまるでなっていないな。今日は泊めてやるから明日やり直せ」
「はぁ?」
本の並びなんて、自分で整えたらいいのに。大体、床に本を積み上げていた人が何を言うんだろう。
帰りますと言いたいけど、帰って、それから――?
僕には町に帰ったところで何もない。
待っている家族はもういないんだ。母さんは僕を産んだ時に、それから、一年前に父さんも落馬事故で死んだ。
学校に通ってたし、まだ働ける年じゃないけど、他人の世話にならなきゃいけないほど小さくもないから一人でいた。父さんの蓄えが少しはあったし。
でも、この先の家賃が払えないんじゃないかって心配した大家さんが、住み込みの仕事を探してきて僕に紹介するって言い出したんだ。
なんとかして僕を追い出したかったらしい。でも、僕は家族のいない可哀想な孤児だから、世間の目があって無下にはできなかった。
僕は精一杯の強がりで、そこまで世話にならなくても自分のことは何とかしますって言って出てきた。
小さなリュックだけが僕の全財産だ。
一日ここに長くいたからって、何も変わらない。
家も家族も希望もない僕だから。
「……ここの本はすべてあなたのものですか? これ、魔術書でしょう? アルハーレン様でないのはわかりましたけど、魔術師なんですか?」
恐れがないわけじゃない。
それでも口が動くのは、知りたい気持ちが先走るからだ。
「一応」
一応、この本は彼のもので、彼は魔術師であるらしかった。
でも、そんなことはどうでもいいとばかりにリュークさんは指先を振ってみせる。
「で、晩飯はどうする? お前、料理はできるのか?」
父子家庭だったし、小さい頃から家事を手伝っていた。凝った料理でなければ作れる。多分、このだらしない男よりは、できる。
「はい、できます」
自信を持って答えると、リュークさんは満足げにうなずいた。
「そうか。なら台所のものを好きに使っていいから何か作ってくれ」
労働が宿代だと思って我慢しよう。それに、リュークさんが作るとまた変なものを作りそうだから、僕が作った方がいい。
「わかりました」
きっと、台所も汚いに違いないと疑いなく思う。
――やっぱりだ。
その疑いは正しかった。
いつも、どこでどうやって食事をしているんだろう。机の上には食材の包装紙や紙袋、干からびた果物の皮――ゴミだらけだ。唯一、まな板を置いているスペースだけが無事で、リュークさんの調理は切って焼くくらいのものっていう気がした。
とりあえず、空の紙袋にゴミをまとめて入れて、机を片づけた。それから、無事な食材を探す。箱の中に芋と玉ねぎがあった。戸棚の中に燻製肉の塊があるのも見つけた。
表に山羊がいたからミルクもある。簡単にシチューでいい。
僕は芋の皮を剥き、玉ねぎを剥き、肉を刻んでシチューを煮込む。食事に使う水も魔術で出す。
「தண்ணீர் கொடுங்கள்」
唱えると、手の平から淡い光が珠になって現れ、水球が鍋を満たした。
どうやらこの家には井戸がない。リュークさんも常に魔術で飲料水を確保しているんだろうな。
もちろん、煮炊きする火もそうだ。
クラクラとシチューが煮えるのを待っていると、少し冷静になって自分の置かれている状況がおかしいことを改めて考えた。
リューク・アルハーレン様の弟子になれないのなら、僕はこうした日常的に使う魔術としか関わっていかないことになる。
――魔術を極めたかった。けど、それは一体なんのためだろう。
喜んでくれる家族はもういない。
周囲を見返してやりたい気持ちはなくもない。
それなら、単なる探求心か。
己の心を正しく知るには、僕はまだ未熟なのかもしれない。
「――おい、煮えたぎってるぞ?」
不意に声をかけられて、僕は飛び上りそうなほどに驚いた。
「あ、あ、すいません」
呼吸を落ち着け、火加減を調節する。そんな様子を、リュークさんは無言で眺めていたかと思うと、ポツリと言った。
「まあ、そういう魔術が使えるなら十分だな」
偉そうにそんなことを言われた。
十分っていうのは、職に就くためには十分ってことだろう。国属の魔術師団に入れるほど優秀だと言われているわけじゃない。
大体、伝説の賢者に名前が似ているだけの隠遁魔術師に言われても嬉しくない。それどころか馬鹿にされたような気分になる。
「十分ってなんですか? 僕はもっと学んで、それこそ伝説の賢者と謳われるようになりたいんです。アルハーレン様の弟子に、なりたいんです」
すると、リュークさんはポリポリと頭を掻いた。
「弟子なぁ。魔術なんて習うものじゃないぞ。感じろ」
また無茶なことを言う。そもそも、あなたの弟子になりたいと言ったわけではありませんけど、というのが僕の心の声だ。
「感じろって、それで済んだら魔術学園なんて要りませんよ」
「そうだな。要らないぞ」
要らないんだ?
あっさりと言うから、僕の方が言葉に詰まった。
その要らない学園から要らないと言われた僕の立場はどうなる?
僕が絶句していると、リュークさんはニヤニヤしながら言った。
「学園に入れなかったのは、お前が貧乏だからだ。あそこはなんせ金がかかる。それから、身分や家柄で差別もされる。お前が入れなかったのは幸いだ」
「なっ!」
なんでそんなことを知っているんだ?
学園の話なんてひとつもしてないのに。
リュークさんは、まさか心を読む?
僕があんぐりと口を開けていると、リュークさんはすぐに種明かしをした。
「なんで入れなかったんだって、寝言で恨み言をツラツラ言ってたぞ」
言っていたらしい。
なんでこんな人に聞かれてしまったんだろう。不幸が折り重なる。
ため息をついてしまったから、また幸せが遠のいたかも。
「その理由が貧乏な庶民だからだって言うんですか?」
「そうだ」
慰めてくれる気はないらしい。冷徹な男だな。
そう思ったら、意外なことを言い出した。
「金ばっかりかかるくせに大したことは教えちゃくれない。そんな学園に通うことが必ずしもお前のためになるとは思わない。いじめで挫折して性根が歪むか世を儚むか……その先生とやらはそう思ったんじゃないのか?」
「え……っ」
「ましてや魔術師団なんて最悪だぞ。その学園の延長だ。無能なやつらが
世のため人のためになることをしましょう。
そんなふうに教えられ、育てられた僕に、この人は真逆のことを言う。
――悪魔みたいだな。僕を堕落させたいのかな。
クタクタとシチューの煮える平凡な音に不思議と寒気がした。答えず、無言のままでいる僕に、リュークさんは美しく微笑んでみせた。
「魔術を学びたいのなら、そうだな。そのシチューが上手くできていたら俺の弟子にしてやろう」
「へ?」
賢者アルハーレン様の弟子になりたいとは言ったけど、ファルハーレンさんの弟子になりたいと言った覚えはないですよ?
それなのに、リュークさんは笑顔で言った。
「そういうわけだから、シチューができたら呼べ」
ヒュッと瞬時にその場から消えた。本気で心臓に悪い。
この台所には扉がない。ないのだから足で歩いて出ていけばいいものを。
――けど、並の魔術師があんな移動法を使うだろうか。アルハーレン様ほどではないにしても、そこそこには力のある魔術師に違いない。
それとも、人ではなくて本当に悪魔だったりして。魂を取られたらどうしようか。
クタクタ。クタクタ。
煮えたシチューの鍋とにらめっこしつつ、僕は唸った。
さあ、最後の味つけだ。
嫌なら無茶苦茶な味つけをすればいい。
こんなものが食えるかと頭からシチューをかけられるかもしれないけれど、この先の人生をあの男に預けるよりはいいかもしれない。
ただ、行く当てのない僕を弟子にしてくれるというのなら、少しくらいはここで様子を見てみたら何か新しい発見があるかな?
どうするのがいいのか。
答えをくれる相手は誰もいない。
この先、どんなことも僕が自ら考え、選び取らなくちゃいけないんだ。
僕は震える手で塩壺を抱えた。
☆ ★ ☆
食卓の席に着いたリュークさんの前に僕は湯気の上がったシチューを差し出す。そうして、自分の分も置いてから席に着く。一人暮らしのようだけど、椅子はふたつあった。客人が来ることもあるんだろうか?
僕の作ったシチューを、リュークさんは意外と綺麗な所作で口に含んだ。
――シチューは、普通の味だ。
特別な味つけができるような材料もなければ、わざと不味く作ったのでは食材が勿体ない。それを僕も食べなくてちゃいけないんだから、普通の味にしたかった。
これを美味しいと感じるか、平凡だと感じるか、リュークさんの味覚なんて知らない。
もう、なるようになれ。後のことなんて僕が考えてもどうにもならない。
けど、それでも、心臓がバクバクと鳴った。ひと口、ふた口、とリュークさんが無言でシチューを食べる、その静けさが不気味だった。
僕も黙ってシチューを食べた。空腹だから美味しく感じるだけなのか。もともと貧乏だから、舌は肥えていない。
リュークさんと差し向かいで食べるのに疲れてくる。リュークさんは先に食べ終わり、口元をナプキンで拭うとあっさりと言った。
「うん、まあ、及第点だな」
「…………」
「約束だから、弟子にしてやろう」
「…………」
もっと嬉しそうな顔をしろと言われそうだけど、多分僕はしかめっ面だ。これが賢者アルハーレン様なら感涙して泣いてしまう。でも、名前が似ているだけの魔術師では微妙なところだ。
「あの、もし僕がやっぱり賢者アルハーレン様の弟子になるのを諦めきれなくなったら、この師弟関係は解除できますか?」
失礼なことを言うなと怒るかと思えば、リュークさんは表情ひとつ変えなかった。
「ああ、いいぞ」
案外大らかだな。それなら、ほんの繋ぎにこのリューク・ファルハーレンさんの弟子になってみてもいい。あの特殊な移動法を学んでみるのも面白いかもしれない。
「わかりました。よろしくお願い致します、師匠」
僕が頭を下げると、『リュークさん』改め、師匠はクスリと笑った。その笑顔に、僕はやっぱり早まってしまっただろうかという気になったけど、後の祭りである。
「さて、まず何から教えようか」
クスクス、クスクス、笑っている。
「…………」
ここは森の奥。
助けは、来ない。
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