第3話

 泣いて、泣いて、やっと気持ちが落ち着くと、今度は顔から火が出るほどの羞恥心が湧いた。

 見ず知らずの人の家で、休ませてもらった礼も言わずに泣き喚くなんて、普段の僕ならしなかった。こんな奇行に走ったのは、要するに疲れていたんだ。


 寝不足、空腹、そして絶望。

 これで真っ当な精神状態でいられるはずがない。


 僕が恥じ入っていると、あの人が頬杖を突いて僕のことをじぃっと見ていた。かと思うと、不意ににこりと笑った。

 それだけで急に優しい人かもしれないって気になるのは、顔が整っているからかな。


「気は済んだか?」

「す、すみません。お恥ずかしいところをお見せしました!」


 僕はとっさにベッドから下りた。

 しかし、だ。そのせいで積み上げてあった本の塔が揺らめいて、僕の方に倒れかかった。


「いっ」


 その本は、僕の背よりも高く積まれていて、しかも間には分厚い辞典が挟まっている。とっさに、僕は手で本を押しとどめようとした。でも、どうにかできる量じゃなかった。僕は本に押しつぶされ、床に倒れた。


 背中にドサドサと本が降り注ぎ、本の角が容赦なく肉の薄い僕の背中を打ちつける。痛い。


 それでも彼は窓辺からまったく動かなかった。ただひと言、あーあ、とつぶやいただけだった。

 ――優しい人、じゃないかもしれない。


「それ、順番に並んでたんだけど?」


 なんの順番だと問いたいけど、答えを聞いてもきっとわからない。

 痛みに呻きつつ、僕は瓦礫のような本の間から這い出した。


「か、片づけます。すみませんでした。あと、休ませて頂いてありがとうございました……」


 今さらだけどお礼を言った。そして、目の前の不思議な人に訊ねる。


「あの、僕はレフィ・カーメルって言います。実は、リューク・アルハーレン様に弟子入りしたくてここまで来たんですけど、お宅を間違えてしまったみたいで」


 ちらりと彼に目を向ける。


「あなたのお名前は? その、ここって暮らすには不便じゃないんですか?」


 僕の問いかけに、彼は顎を摩りながら面倒くさそうに名乗った。


「俺はリューク・ファルハーレンだ」


 リューク・『ファ』ルハーレン。

 ――伝説の賢者と一文字違い?

 なんて紛らわしい名前だ。いや、当人のせいではないとして、当の本人も迷惑しているんだとして、それでもモヤモヤする。


「別に不便とは思っていないけどな」


 あっさりと言われた。

 もしかすると、賢者でない方の『リューク』さんは吟遊詩人で、あんまり家にじっとしていないとか。だから家はこんなにも荒れている?

 そう考えたら腑に落ちた。


 冷静になってみると、伝説の賢者の居場所なんて民間人が知っていていい情報じゃない。もし本当にここにいたのなら、僕みたいなのが弟子にしてくれって殺到するだろう。本物は、きっと誰にも知られない場所で余生を過ごしているんだ。


 この人は名前が似ているから、勘違いした人が、ここにアルハーレン様が住んでいるって噂をばら撒いた結果じゃなかろうか。

 鵜呑みにした僕にも非がある。そう考えたらどっと疲れた。


「……ええと、その、とても厚かましいことをお願いしますけど、僕、ここまで来るのに食料が底を突いてしまって、このところ何も食べていないんです。なんでもいいんで、少し食べさせてもらえたら――」


 すると、リュークさんは目を瞬かせ、それから輝くような笑顔を見せた。


「ああ、いいぞ」


 なんで? と嫌な顔をするかと思えば、案外親切だ。やっぱりいい人だった。

 救われたような気分で僕はリュークさんを見つめた。

 僕は貧乏だから、食べ物の好き嫌いなんて言えたものじゃない。菜っ葉のヘタだろうと、筋張った肉だろうとなんだって食べる。

 でも、リュークさんは笑顔でひどいことを言った。


「じゃあ、ネズミの丸焼きでいいかな?」

「へ?」

「好き嫌いがないっていいな」

「えっ? ええっ」

「さて、パパッと焼いてくるか」

「…………」


 まさか。

 本気なわけない。

 あんな綺麗な顔をしてネズミを焼くなんて、あるわけない。

 あるわけ、ない。


「…………」


 空腹に加え、さらに血の気が引いた。またもや卒倒しそうになった。

 そして、僕が軽く意識を飛ばしかけると、いつの間にか窓辺からリュークさんの姿が消えていた。そこで僕は彼の正体が化け狐じゃないかって気になった。


 ネズミが好きなんて、狐そのものだ。こんな森の奥に住んでいるのもそのせいか。

 そうだ、きっとそうだ。

 化かされているだけならまだしも、食われてしまったりしないかな。


 僕はなんとかしてこの部屋から出ようとした。でも、乱雑すぎて扉までが遠かった。しかも、扉の前にはやっぱり本がたくさん積まれていて、リュークさんはどうやってあの扉を開けたのだかもわからない。


 焦ると余計に上手く歩けなくて、障害物と化した本に行く手を阻まれながら僕はもがいた。けど、どうしても頭上から本が降ってくる。その角が後頭部に激突して悶絶した。

 さっきとは違った意味で泣いた。


 僕も本は好きなのに。知識を詰め込むのは楽しいし、幸せだけれど、今はこの本たちが恨めしかった。狐のくせになんでこんなに本ばっかり溜め込んでいるんだ?


「ん?」


 落ちてきて開いた本に目が行く。その本は、魔術の研究論文だった。

 難解すぎて今の僕には理解できないけど、魔術陣が描かれていて、それについての解説がされている。しかも、この本は手書きだった。写しかどうかは知らないけど、貴重なものかもしれない。


 こんな時でも、僕はその本が気になった。知識がそこに転がっていたら、手を伸ばさずにはいられない性分だ。早く逃げないといけないのに、それさえ忘れて見入ってしまう。

 そんなだから、背後から声がかかった。


「できたぞ」

「うわぁあああっ!」


 背後といっても、ほぼ耳元に向けられた。吐息がかかりそうな距離だ。僕がひっくり返って絶叫したのも無理はない。

 リュークさんは手に木皿を持っていた。指三本で支えている。僕はその皿の底を見上げて身震いしたけど、リュークさんは笑顔だった。


「さあ、どうぞ。召し上がれ」

「い、いや、ご、ご、ごめんなさいっ。さすがにネズミの丸焼きは無理ですっ」


 土下座するしかなかった。まったく、なんてところに迷い込んでしまったんだろう。泣きっ面に蜂とか、あんまりだ。


 でも、リュークさんは僕が額を床から離したその隙間に木皿を滑り込ませてきた。ぎゃあああ、と叫んで泡を噴きそうになった僕が仰け反ると、それでもリュークさんは容赦なく言う。


「食べなよ。冷めるから」


 無理だと言ったのに。

 泣きべそをかく僕だったけど、ふと、鼻先をかすめた匂いに気づいた。これは少なくとも肉の焼けた匂いじゃない。

 恐る恐る木皿を見ると――。


「苦労したんだから、食べな」

「…………」


 パンをネズミの形に切り抜いてある。その形にする意味がない。そう、嫌がらせ以外には。

 ミルクと卵が染み込み、こんがりと焼かれたネズミ型のパン。

 どうしたって食欲をそそらない料理だ。


 この人、馬鹿じゃないのか。

 皿と、リュークさんとを見比べ、僕は呆れてため息をついた。脱力したら疲れて、こんなものでも食べてやるかという気になった。


「……いただきます」


 ネズミパンを尻から齧った。

 うん、美味しくない。

 これといって味がない。


 それでも、僕は食べた。完食した。

 久しぶりに腹の中に食べ物を入れたから、味に関わりなく満足感はあった。僕はひどい嫌がらせをする相手でも一応のお礼は言う。


「助かりました。ありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げる。リュークさんはにこにこと笑った。


「じゃあ、その礼に掃除でもしてみるか?」


 この汚い部屋の掃除にパンひと切れ。割に合わないけれど、仕方がない。

 二度と会わないんだから、借りを作ったままというのも後味が悪い。

 僕はうなずいた。


「はい、やります!」


 見た目だけササッと整えればいいだろう。上から下まで磨いていたら、終わるのがいつになるのかわからない。

 リュークさんは満足そうにうなずいた。


「ええと、じゃあ雑巾とバケツを貸してください」

「ああ、裏手に立てかけてあるぞ。好きに使え」


 裏手ということは、この部屋から出なくちゃいけないんだけど、この部屋の扉はひとつ。それが本に埋もれて開かない。――リュークさんはそもそもどこから出入りしたのだろう?


「あの、扉が塞がっていますよ?」

「扉? それがどうした?」


 あっさりと返されてしまったけど、結構大事なことだと思う。


「いや、扉が開かないと出入りできないじゃないですか。さっき、どうやって出ていったんですか?」


 まさか、窓から出入りしているなんてことがあるんだろうか。

 でも、リュークさんは首を傾げた。


「どうやってとは、妙なことを訊くな?」

「いや、普通です」

「それじゃあ、お前はここから出られないのか?」

「本をどかさないと出られません」


 言われないとわからないのもどうかと思う。

 リュークさんは目を瞬かせた。


「そうなのか? そんな程度で例の魔術師の弟子になろうとしたのか?」


 グサ、と心を抉るようなことを言われた。

 このよくわからない人にまで、先生と同じように劣等生の烙印を押されるとは思わなかった。


 僕がショックで固まっていると、リュークさんは急に僕の肩に手を回した。ふと、リュークさんの体が熱を帯びる。


 僕はハッとして息を呑んだ。魔力の流れをリュークさんの体から感じる。

 少なくとも、それは僕よりも格段に強いものだった。やっぱりこの人も魔術師なんだ。伝説の賢者ではなくても。


 目の前が弾けるように白んで、そうして気づいた時、僕は小屋の入り口にいた。リュークさんは平然と立っているけど、僕はよろけて膝を突いた。


「ほら、こうすれば扉を潜る必要はないだろう?」


 素直に扉を使った方が手っ取り早い。この感覚がよくわからない。


「……掃除して、扉を開けられるように、します」

「そうか? まあいいけど」


 そう言って、リュークさんは僕を残して玄関の扉から中へ入った。この扉だけは使えるらしい。僕は急いで裏手に回り、蜘蛛の巣の張ったバケツと雑巾を手に玄関へ戻った。

 玄関の扉を開けると、そこで絶句して固まる。


 ――汚い。

 靴がいくつも散乱していて、床が土だらけだ。その奥に続く廊下には脱いだ服がポイポイと放り投げられている。見た目が美青年だけに、彼がこんな汚い家に住んでいるとは誰も思わないだろう。それにしても、汚い。


 気を取り直して僕は廊下を行き、扉を開けようとしたけど、開かなかった。リュークさんは息をするようにして壁をすり抜けるけど、僕にそんな能力はない。


「ちょっ、開けてくださいよ!」


 どの部屋でもいいから開けて、掃除をさせてほしい。終わったらさっさと出ていく。

 ドンドン、と手前の戸を叩くと、リュークさんが背後に現れた。


「だから、開けないで出入りしろ」


 ひどい無茶ぶりだ。


「む、無理ですって」

「不便だな」


 普通です。

 僕は再びリュークさんによって室内へ運ばれた。

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