044 キルダ初日ー到着ー
グライフのランドマークである修道院との別れを惜しむかのように電車はゆっくりと動き始めた。車窓から見えるのは、突き抜けるように晴れ渡った青空とグライフの町並み。
向かいに座るエステラを春の光が優しく照らし、彼女の肌は向こう側が見えてしまいそうなほど白く透き通っていると同時に、ミルクティー色の髪は晴れた日の海の水面のようにキラキラと輝いている。
射し込んでくる光の角度のせいか、いつもは蜂蜜に濡れた月のように見えるエステラの瞳も、今はガラスに注がれたウイスキーのように透明で淡い琥珀色の宝石のようだ。旅のお供に、音楽も本も要らない。ただずっと目の前に座るこの女神を眺めていたい。そう思えるほど、エステラは美しい。
グライフから離れていくことを、車窓の景色は静かに私たちの視覚に教えてくれた。建物が一気に減り、どこまでも丘陵地と田園風景が続く。エステラは風に吹かれる時のように目を細めながらずっと流れる景色を見ていた。
切符を点検に来る車掌や車内を行き交う乗客の誰もがエステラに目を奪われているのがわかる。中には何か信じられないようなものが目に入ってしまったかのように、2度見する人までいる。
「今どのあたり?」
切ないほど透明な声が私の耳に心地よく響いた。
「乗って10分ちょっとでしょ。まだグライフからあまり離れてないよ。次の駅はキルバーレンだっけ……」
私の携帯で地図開き、エステラに位置情報を見せる。
「この電車に1時間ぐらい乗るんでしょう?」
「そうよ。西海岸まで行くからね。そういえばエステラは海見たことある?」
「話に聞くだけならね。実際に見たことはない」
そう言うとエステラはまた車窓の外に視線を戻した。
「すごいよね、こんなに簡単に遠くにいけるような世界になったなんて。母さんもストゥルーンも、きっと馬に乗って何日も何日も旅したんだと思うんだ……この世界だったら逃げるのも簡単だね、きっと。追っ手が追いついてくるのも早いんだろうけど」
会話というよりは、まるで物語のように語られる言葉を聞いて、私もエステラの母親とその母親を連れて逃げたストゥルーンに思いを馳せた。
……どれぐらい馬に乗って、どこへ行き着き、どんな生活を送ったんだろう? やっぱり野宿なんかを繰り返したのだろうか? 2人は何を語り合ったのだろう。エステラを想って悲しみを分かち合いながら、涙することもあったのだろうか。
車窓に流れる風景と、その透明な窓に映るエステラを眺めながら、あの2人のその後をぼーっと考えていた。
終着駅で電車を降り、1つ目のフェリーターミナルへと向かう。駅から歩いて5分ほどの道を歩いていると、潮風が肌を優しく撫でた。グライフとは全く違う匂い。ここが海のすぐ近くなのだと感じずにはいられない。
「わあ……これが海……!」
フェリーターミナルから見える海にエステラは目を輝かせた。私自身には初めて海を見た時の記憶がないけど、今のエステラのように興奮したのだろうか。それとも実際の海を見る前に、テレビや本なんかで海を見ていて、特別喜びもしなかったのだろうか。人類で初めて海を見つけた人は、どんなことを感じたのだろう。興奮するエステラを見ながら、今まで考えもしなかったことを、私は静かに考えていた。
「おねえちゃん海見たことないの?」
幼い声がする方に視線を向けると、幼稚園児ぐらいだろうか。小さな男の子が窓の外を見ていた私たちを不思議そうな顔で見ていた。
「そうよ、海初めて見たの。すごいね、広大できれい」
「僕は毎日見てるよ。海は広くて深いんだ」
「ボクは、この町に住んでるの?」
「住んでるのは、あの島。今フェリー待ってる。おねえちゃんたち、どこから来たの?」
男の子がそう聞いた後、エステラの回答まで宇宙のような沈黙が流れた。
「……グ、グライフから来たの。知ってる? グライフっていう町」
「知らない」
「……すごく遠い遠いところ。おねえちゃんはすごーーく遠くから来たのよ」
そう言うと、フェリーのチケットを買ってきたと思われる女性が男の子の名前を呼んだ。男の子は無邪気な笑顔で「バイバイ」と言うと、その女性の方へと走っていった。
……すごく遠いところ、か……。
エステラにとっての「遠い」は距離的なことではないか。300年前という遠い昔から来た、という意味にも聞こえなくもなかった。
45分の船の旅を終えて、男の子の住んでいるというイェヒナー島に着くと、フェリーターミナル前のバス停からバスに乗り、島の反対側まで行く。そこに、もう1つフェリーターミナルがあるのだ。ターミナルの売店でサンドイッチを買った。
「向こうに見えるあの島がキルダ島ね?」
「うん、ここから船でまた45分ぐらいだって」
「あっちには地平線が見えるよ。私、地平線も見たの初めて……」
キルダ島より南は島も何もない大海原が広がっている。地平線を見つめながら目を潤ませているエステラは一体何を感じ、何を想っているんだろう。
「母さんとストゥルーンは見たかな? 海とか地平線とか……。西海岸までは辿り着かなかったかもね。しばらく西へ進んだ後、進路を北か南に変えた可能性だってあるし」
「この景色は300年前から変わってないんだろうね。もしエステラのお母様とストゥルーンが西海岸に辿り着いたんだとしたら、きっとこの大海原を見てるはずだよ」
エステラの口角が優雅に上がった。ストゥルーンと自分の母親が見たのと同じ景色を今この目で見ているのかもしれない、という喜びの笑顔。この景色を必死に目に焼きつけようとしているかのように、エステラはその景色から視線を外さなかった。
キルダ島に着くと、そのままタクシーを拾って店長の実家まで行った。
店長の実家は、コの字型をした平屋で、作家のアトリエみたいな印象を受けた。タクシーが家の前に停まると、背の低い年配の女性が庭に出てきて出迎えてくれる。
「オフィーリアさんと、エステラさんね? お待ちしていましたよ」
銀髪の髪を後ろで大きなお団子にまとめた、目尻の笑い皺が印象的なこの女性が店長のお母様マレードさんだ。
「はじめまして。オフィーリアと、エステラです。今日から2週間お世話になります」
案内されたのは、コの字の底辺。ここが私とエステラの共同部屋でシャワーもトイレも完備の完全個室のゲストルームだ。屋根にも窓がついていて自然光がたっぷり差し込んでくる明るい部屋だった。
コの字の上辺がマレードさんの居住区で、中間にあるのがキッチンや洗濯などの共同スペースになっている。
「お料理を教えるのはここだから、オフィーリアさんと私が顔を合わせるのは、ほぼこの部屋ということになるかしらね」
家の中を案内しながらマレードさんは楽しそうに言った。
「あと、この共同スペースには地下室もあるのよ」
そう言いながら、部屋の奥にある階段を指さした。
「地下は食べ物やワインを貯蔵したり、チーズを熟成させてたり……ちょこっと作業場が併設されてる倉庫みたいなものよ」
階段を降りる前に、地下の電気のスイッチをつけると「足元に気を付けてね」と言いながら階段を降りていく。地下室がある家なんて初めてだ。少しワクワクする。
階段を降りていくと、地下室なだけあって窓もない自然光が届かない空間だった。
……似てる。エステラの実家の地下室に、すっごく雰囲気が似てる。
「ここがワインで、こっちは缶詰。ここはハーブとか塩とか調味料関係ね。で、こっちがチーズを熟成させてるところ」
「す、すごい量ですね」
「ここは島だから、春から夏の間に蓄えれる分の保存食は蓄えておくの。冬は船が欠航になることも多いから、物流が止まっちゃうこともあってね。生鮮食品なんかは、やっぱりスーパー頼みになっちゃうんだけど……」
家の中の案内を終えたマレードさんは、共有スペースにあるダイニングルームに案内し、慣れた手つきでお茶菓子を用意してくれた。
「わあーー!このケーキ、すごいいい香りがしますね。紅茶だけじゃないような……」
「そうなの、キルダ特産のワッチュゴというハーブも入れてるのよ。これから2週間、いろいろなハーブを覚えてもらわないといけないんだけど、ワッチュゴもその1つよ」
「店長の作る料理って本当に他のレストランで食べる料理と全然違うんですよね。ハーブの使い方なのかな? とにかく独特で。キルダって料理に色んなハーブを使うんですね」
「そうなの。お土産屋さんに色んなハーブも売ったりしてるんだけどね、やっぱり観光客の人はハーブの使い方がわからないみたいで、都会ではキルダのハーブはあまり浸透しないみたいね」
エステラもマレードさんお手製のケーキを幸せそうに頬張っている。
……美味しそうに食べてる。可愛い。
「……あの、店長のお父様は?」
「ああ、私たち何年も前に離婚してるから、この家に住んでるのは私1人なの」
やばい。いきなり地雷を踏んでしまった。
「す、すみません……知らずに聞いてしまって……」
「気にしなくていいのよ。彼は昔から世界を旅したかったみたいでね。50歳ぐらいの時だったかしら……やっぱり自分の夢を叶えたいから離婚してくれって頼まれてね。東に東に行く、とだけ言って旅立ってしまったわ。それからは音信不通」
……東に東に、か。ストゥルーンと反対だ。
「オフィーリアさんのご家族は?」
店長は私の両親のことをマレードさんに話していないらしい。ずけずけとマレードさんの元ご主人のことを聞いてしまった手前、自分だけ話さないわけにはいかなかった。また心の傷が開きそうになろうとしても。
「私の両親は……一昨年に死にました。もしかしたらテレビや新聞で見られたかもしれません。弁護士だったんですけど、刺殺されたんです」
マレードさんは思い出したように「ああ……」と小さな声を出した。
「1人っ子なので、今は店長のお店で働きながら、1人暮らしをしています。あ、正確に言えばエステラとルームシェアなんですけど……」
マレードさんは静かに立ち上がったかと思うと、いきなり私を抱き締めた。
「……オフィーリアさん、今まで1人でよく頑張って生きてこられたわね……」
温かい声だった。
抱き締められて、マレードさんの温かい体温がじんわりと私を包み込む。
……あったかい……。
洗いたてのシャツのにおいと、どこか懐かしいお母さんみたいな匂いが、私をどこか懐かしい場所へと連れていってくれる気がした。
「あなたを見ればわかるわ。どれだけ気持ちを押し殺して、頑張って生きてきたのか」
私の目から涙の雫が零れた。
今までいろんな人に声をかけてもらった。
ーー可哀そうに。
ーー辛かっただろうね。
ーー何かあったら言って。力になるから。
ーー頑張れ。
どれも私を心配したり、元気づけたりするための言葉だとわかっていたけど、どの言葉も私の心にはあまり響かなかった。
憐れみなんていらない。放っておいて欲しい。そう思いながら、人からの思いやりや励ましの言葉を受け流してきた。
今までは。
孤独で、死にたいほどの絶望と一緒に生きてきた私に「今日まで頑張って生きてきた」ことに対して声をかけてくれた人がいただろうか。
嗚咽を堪えながら、次から次に零れ落ちる涙を私は必死に袖で拭った。
「ごめんなさい……あの……」
「いいのよ、オフィーリアさん。涙に理由なんて必要ないんだから」
両親のことで、涙は堪えないといけないものだと思い込んでいた。しかし今「理由なんて必要ない」と好きなだけ泣かせてくれるマレードさんは、私の心の中に温かい春の風を送り込んで、優しく氷を融かしてくれるようだった。
キルダ到着初日から、料理の特訓なんて何もしなかった。ただ思いっきり泣いて、マレードさんの作る美味しいご飯を食べて、旅の疲れを癒すべく思いっきり眠ったのだった。
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