036 夜番の日記Ⅶーふたりの愛ー
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取り調べは終盤に差し掛かっているようです。その後、おそらく数週間後から、いよいよ裁判がはじまります。名ばかりの裁判。形だけの裁判。結果が見えている裁判。この裁判に意味はあるのでしょうか。
所長に密告された彼女は有罪判決を受けるのでしょう。何もしていない彼女が処せられると考えただけで、胸が張り裂けそうです。なぜ神は悪を生かせ、罪なき人間を殺してしまうのでしょうか。なぜあの男は処せられないのでしょうか。私にはわかりません。神も正義も、人間もこの社会も、私には何もかもがわかりません。
私がどれだけ祈っても、彼女は有罪になるのでしょう。それでも私は何か奇跡のようなことが起こって、彼女が無罪にならないかと祈らずにはいられません。
昨日の彼女は、表情が柔らかいように感じられました。そして再び母親に手紙を書きました。彼女が地面に這いつくばって手紙を書いていたのを見たので内容は知っています。自分の母親に「死ねる薬」を頼み、そして遠くに逃げてほしい、ということを書いていました。
「ストゥルーン、この手紙をお願いできる?」
「ああ、もちろん」
私は鉄格子越しに手紙を受け取りました。
「この手紙を渡した2日後ぐらいに、もう1度母さんの元へ行ける? 母さんから預かって欲しい物があるんだけど……」
「それって……『死ねる薬』のこと?」
その言葉に彼女は懺悔するような顔をしながら俯きました。
「……わからないの……」
「わからない? 何が?」
「取り調べの時は痛くて苦しくて、辛くて張り裂けそうで、いつも『ああ、死にたい。今すぐ死んでこの地獄を終わらせたい』って思うの。私は有罪になりそうだし、もう自由の身にはなれないのかな、って思ったら、生きてる意味なんてないんじゃないか、って。今すぐ死ぬ方がよっぽどいい、ってね。それでもね、夜が来ると色んなことを思い出して『また母さんと暮らせたら』って希望のようなものが霧のように漂って私の心の中を支配するの。今の私には、自分が死にたいのか生きたいのか、それすらわからない」
私には彼女に何て言ってあげればいいのか、わかりませんでした。返答に困っていると、急に彼女が震えるような声で沈黙を破りました。
「ストゥルーン……もし有罪になったら……私の処刑、見ないでね……」
「……っ……!」
いきなり頭を鈍器で殴られたようでした。私はなぜ彼女がいきなりそんな事を言い始めたのか理解できません。
「ストゥルーンには無残に首を吊られて、焼かれる私の姿なんて見てもらいたくないよ……。今も傷だらけの血塗れだけどね、さすがに罪人として公開処刑される姿はちょっと……辛いの」
「……辛い?」
彼女はずっと俯いています。
「……あなたも……ストゥルーンも好きな人に自分の惨めな姿、見られたくないでしょう? あなたは私の恩人。とても大切な人だもの」
その一言で混乱と悦びが入り混じった気持ちが静かに私の心に湧いてきました。自分の想いを伝えるのは今しかないと思い、私は深呼吸しました。
「もし……」
「もし?」
「もし、君が無罪になったら、正式に結婚を申し込みに行ってもいいだろうか?」
言った瞬間、なんと回りくどい言い方をしていまったのかと自分を蹴り飛ばしたい気分に襲われました。自分の気持ちを伝えるべきだったのです。ただ一言「好きです、愛しています」と。一瞬の後悔が心の中を横切ると、彼女がふっと笑う吐息が聞こえました。
「ストゥルーン……」
透明な声が儚く震えています。彼女は私の気持ちを受け止めてくれたようでした。
「嬉しい……生きてきた中で一番嬉しい言葉を今聞いたかもしれない。あなたのような素晴らしい心の持ち主から、そんな言葉を受けれるなんて。……けど……駄目だよ……」
嬉しいのに駄目とはどういうことなのでしょうか? 彼女に視線を向けると彼女は嬉しそうな目をしていると同時に暗く悲しい表情を浮かべていました。
「私はきっと有罪になるし……それに、私の体……もう……」
両腕で自分を包み込む彼女を見て、私は察しました。好きでもない男の快楽のために繰り返し強姦され、痛めつけられてきた彼女は、もう自分が結婚して幸せな家庭を持つことを諦めているのだと。
「すまない……」
震える声を振り絞りました。
「すまない……君と君の心を守ってあげられなくて……」
なんと情けない男なのでしょうか。私は愛する彼女をここから助け出すことも、所長に歯向かうことも、傷だらけの彼女を痛みを和らげてあげることもできないのです。すまない、と謝ったところで、彼女が救われるはずもありません。何も出来ない自分の存在こそが最大の罪のような気がしました。
「……もし君が無罪になったら……もう絶対に傷つけない。誰にも君のことを傷つかせない。泣かせたりしない……。権力に屈して、君を見捨てたり絶対にしない。私の命にかけてでも君の笑顔を守ると約束する……!」
彼女に言う、というよりは神に誓うように言うと、彼女の目尻にうっすらと光る物が滲んでいました。
「けど、もし君が有罪になれば……。君が有罪になれば、私もこの世界に別れを告げる。君のすぐ後を追うよ。私はすでに、君のいないこの世で生きていくことを喜びとは思えないほどに君を愛してしまっているんだ。この愛に命を懸けても構わない」
顔から火が出そうでした。同時に自分の気持ちを全て彼女に伝えられたことで、満足した自分もそこにはいたのです。
彼女は座ったまま鉄格子に手をかけて「ストゥルーン、来て」と私を呼びました。私はゆっくりと鉄格子を握る彼女の手を握ると、彼女の唇に自分の唇を重ねました。唇を重ねた瞬間、不安と悲しみと絶望が私の涙となって溢れ出してきました。涙は次から次に私の頬を伝って、止まる気配が全くありません。
「ストゥルーンには生きて欲しいよ……」
清浄で鮮烈な光が琥珀色の瞳に宿っていました。彼女の頬は焚き火の光を受けて、夕陽を浴びたような温かな色に染まっていました。その温かな頬とは裏腹に、触れている彼女の手も、重ねた唇も血が通っていないように冷たいのです。目に映る彼女と、触れる彼女のギャップが私を大いに混乱させました。
……彼女は今、生きているのだろうか。
……生きているのであれば、死んでしまうのか。
……生きるとは、死ぬとはどういうことなのか。
……彼女の心はすでに死んでいるのではないだろうか。
……私の心は? 私の心は今、生きているのだろうか。
「お願い、私が有罪になっても、あなたは生きて。もし私を愛してくれているのであれば、生きて、そして幸せになって……。そして……できるならば、母さんに出来る限りの便宜をはかってあげて欲しい……」
私の滂沱の涙は頬から顎を流れ、地面にぼたぼたと零れ落ちました。火を焚く薪の音がぱちぱちと聞こえるだけの静かな寒い夜でした。
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